2006年、TVのニュースでワールドカップに合わせてベルリン中央駅が誕生したと伝えていた。旧レアター駅が大幅改築されてベルリン中央駅となったらしい。決勝戦が行われるオリンピックスタジアムも改築されたとTVで紹介していた。40年前のベルリンは未だ連合国の占領下にあり「ベルリンの壁」が街を東西に分けていた。 当時、東側の世界が難しい状況にあることは推測していたが、近い将来に壁が崩壊するなどとは考えていなかった。
小生だけでなく、一般の西独国民も共産主義が上手く行ってないことは分かっていたが「東の人々にもプライドがある」から東西統一が簡単でないと見ていた。冷戦下、西ベルリンへは車・列車・航空機で行けたが、航空機を利用するのが一般的だった。但し、東独上空で飛行出来るルートには制約があり、運行する航空会社も 占領国(米・英・仏)の航空会社に限られていた。航空運賃は西独政府の補助で安く抑えられていた。その代わり機内サーヴィスはアメ玉くらいだった。
ベルリン市街図(2015年のグーグルマップ)
ベルリンでの宿は大抵ホテル・ハンブルクだった。中クラスのホテルで、動物園駅から徒歩20 分位の比較的静かな場所にあった。朝食は二階の大食堂で、ウェイターがサーヴィスする本格的なスタイルだった。昼食は工場の食堂、夕食は街のレストランで洋・華・和の豊富な選択肢を享受した。ジーメンスの工場は大部分が街の北西部のジーメンスシュタットにあり、1977年3月と7月の2回に分けて調査したが、その他に何度か1~2泊の出張をしている。
40 年前、工場の前の通りは路面電車が走っていた。朝は時間が無いのでホテルの前からタクシー、帰りは市電を利用した。当時、昼休みの雑談で地下鉄の計画が話題になった記憶がある。90年代後半に再訪した時、既に市電は無く地下鉄が走っていた。ベルリンの工場で一番印象的だったのは古い事務所ビルに設置されていた「パタノスター(自動循環エレベータ)」である。数珠繋ぎになった客室が一定の速度で上昇・下降していて、利用する人間は飛び乗ったり飛び降りたりする。最初は緊張したが、慣れると便利だった。
ベルリンの街で印象的だったのは「立ち×××」である。週末にオリンピックスタジアムの見物に行ったのだが、その日は偶々サッカーの試合日だった。やむを得ずスタジアム見物を諦めて、入場券を買ってサッカーを観戦した。試合終了後、多数の観客がスタジアム近くの植え込みに駆け込んで「件の光景」が出現するのを目撃してしまった。その後、A氏をアテンドしてベルリンに行った時、ブランデンブルク門を見物中に突然A氏が「我慢できない」と言い出した。近辺にトイレは無さそうなので「件の光景 」を思い出しながら、A氏にも同じことを勧めてしまった。
◆東ベルリン
西ベルリン滞在中、東ベルリンには3度行った。初めての時は、東側の勝手が分からなかったので、観光バスツアーの半日コースを利用した。バスは動物園駅の近くから出た。何処をどう走ったのか分からないうちにツアーは終わっていた。何故か見たくもないソ連の戦勝記念碑のある公園に連れて行かれたことだけ記憶に残っている。多分、そこへ寄ることがツアーバスの運行を許可する条件になっていたと推測される。
2度目の東ベルリン見物はSバーンを利用した。記憶が曖昧だが、フリードリッヒシュトラーセ駅で入国審査を受けた。パスポートを取り上げられて、狭い部屋で長時間待たされた。許可が出た者は順次名前を呼ばれるのだが、小生はなかなか呼ばれず、あまり待たされるので心配かつ緊張した。漸く名前を呼ばれた時はホッとした。東ベルリンに入る時は毎回強制的に6マルク(当時600円位)を現地通貨と交換させられたが、東ではコーヒーを飲むくらいしか使い道が無かった。
東ベルリン行きに慣れた3度目は、チェックポイント・チャーリーから徒歩で入ってみた。夏の太陽の下、人通りの無い道を武装した監視兵に見られながら歩くのは気持ちの良いものではない。最初のツアーの時もバスはここを通ったと思うのだが、その時はバスのルートなど気にしてなかったので、このポイントを通ったのかどうか認識が無い。この日、東ベルリンから出る時はSバーンを使ったと思うのだが記憶が曖昧である。
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