
ドイツ語学校を8月に終了し、9月からアンベルク工場の調査を開始した。続いてミュンヘンの半導体工場の調査に行った。12月、エアランゲンのシステム部の調査を開始、この段階では拠点となるエルランゲンの住居は未定だったので、暫くホテルバイエリッシャーホフに滞在した。ホテル住まいも良いが何処か部屋を借りたいと思い、駐在員のY氏に相談したら、年末に帰国するB氏の部屋はどうかとのことだった。
B氏に同道して部屋を見に行った。場所は駅前からバスで20分くらいの南の郊外で、バス停の近くだった。20階建ての高層アパートの14階で、 16畳くらいのワンルームにシングルのベッドが2台、チェスト、モノクロTV、テーブルと椅子等が備え付けられていた。B氏の希望として退去費用(原状回復・クリーニング)の精算はせず、退去費用の相場の1/2を小生に預けるので最終的な退去費用の精算は小生に任せたいとのことだった。B氏の言う相場が妥当かどうか不明で、多分、小生の負担分が多くなりそうだが、面倒なのでそのまま了承した。B氏からは、これまでの長期出張者が使っていた食器類と一体型の掃除機を引き継いだ。
暫くして、退去費用の引き継ぎを含めたアパートの賃貸契約書にサインした。大家さんとの間に駐在員事務所が入っているので問題は無いが、念のため契約書の隅から隅まで読んだ。ドイツ語の賃貸借契約書は難解だったが、付帯する暖房会社との契約書は更に難解だった。アパートの 暖房はラジエーターに熱湯を通す方式で、熱湯供給会社と契約を交わしたが、暖房費は季節で変動するので、ドイツ人らしく契約期間や春夏秋冬の入退去時期を考慮して計算されており、分厚い料金表が添付 されていた。料金算出は、真夏だけの入居者が暖房を使わない場合でも、設備を維持する観点から幾分かの費用負担をすることを前提としていた。
賃貸契約書には「退去する場合は3ヶ月前に通告すること。」と言う条項があり、サインした時は十分承知していたのだが、日々の業務に追われて失念、退去する頃にはスッカリ忘れていた。お陰で退去時に3ヶ月分の家賃を請求される羽目になった。帰国後、管理会社から「1ヶ月内に入居者が決まったので2ヶ月分の家賃は返却、貴方の口座に払い込んだ。」との連絡を受けビックリした。電気や水道を解約しても、自動引き落とし時期が遅れるので銀行口座は解約せずにいたのだ。

◆エアランゲン中心街の俯瞰図
エアランゲンの街の写真はいつでも撮れると思っていたため、街の写真を撮り漏らしていた。そこで Google Earth で我が職場を中心にエアランゲンの街を俯瞰して見た。

上の俯瞰図を見て半世紀前の街並みを偲ぶことが出来る。画像中央の「我が職場」のある一画は、西南側のシーボルト通り、北側のモーツァルト通り、東南側のヴェルナー・フォン・シーメンス通り、の3本の通りに囲まれている。シーメンス通りを隔てた東側にはエネルギー事業本部の高層ビルがあり、それを囲むようにシーメンス関連の建物群がある。本部の高層ビルは街のアチコチから見える。日本流に言えば、エアランゲンはシーメンス社の城下町である。
◇我が職場
アパートに移る前、12月の大半はホテル住まいだった。ホテルから職場までは徒歩3分位だが、アパートからはバスで20分位掛かった。職場はフレックスタイムが導入されていた。ドイツ人は大抵7時頃出勤で帰りは3時過ぎだったが、小生は日本流の8時出勤で通した。4時を過ぎると掃除の小母さんが来るが、小生が仕事をしていると別の部屋から始めるけどそちらが終わってしまうと待っているので、仕事を切り上げて早めに引き上げることが多かった。厳密に言うと8時間労働は未達だった。
昼食は本部の高層ビルの地階にある社員食堂を利用した。小生の職場と同じ建物の3階に駐在員事務所があったので、昼食後は、邦字紙とコーヒー目当てによく顔を出して雑談をした。ドイツ人の女性秘書が気を利かせて日本茶を勧めてくれたが、水質のせいか日本茶はイマイチで味と香りの強いコーヒーの方が水に合っているようで、小生は何時もコーヒーを所望した。
◆エアランゲン駅周辺の俯瞰図
フゲノッテン教会の前の広場にはバスの路線が何本か集まっていて、アパートから町の中心部に出るバスの路線も全てここに乗り入れていたと思う。そのうちの一本は事務所北側のモーツァルト通りに停留所があり歩かないで済むので、朝はなるべくその路線に乗ったが、本数が少ないので毎朝乗れたわけではない。ところが、この広場から事務所横を通る路線があることを知り、ここから歩かずに、ここで乗り換えて事務所に向かうことを憶えた。街に慣れて段々横着になったのだ。夕方は市役所の傍のスーパーに寄って生鮮食品等を購入することが多く、レジ袋を下げてここまで歩いて来てバスに乗った。

◆我がアパート周辺の俯瞰図
職場周辺、駅周辺と見てきたので、我がアパート周辺も見てみる。こちらは郊外に新しく開けた街である。アパートの西側にアウトバーン73号が通っているが、車を持たない小生は馴染みが無い。出張では航空機利用が多かったが、アパートからニュルンベルク空港へはタクシーを利用した。普段の通勤は専らバスで、バス停はアパートの近くの交差点の周辺にあった。

◆フゲノッテン教会と広場
前にも書いたが、手元にエアランゲンの街の写真が無い。いつでも撮れると油断していたら撮れなかったのである。気がついてはいたが、帰国間際は何かと多忙で撮れなかった。撮っていない写真を手に入れる奥の手はストリートビューである。下の画像はストリートビューから拝借した。教会には入ったことがないが、毎日のようにレジ袋を下げてここからバスに乗った懐かしい広場である。

◆市庁舎
こちらもストリートビューから借用した。広場の様子はあまり思い出せないが、市庁舎の高いビルはよく覚えている。一度だけ市庁舎の中に入ったことがある。ドイツ語学校を終えて仕事を開始した時、駐在員事務所の秘書嬢に連れられて外国人登録に行ったのである。登録手続きは全て秘書嬢任せだったので内容は覚えていないが、その時垣間見たドイツのお役所で使われていた機械式のファイル管理システムに感心した。文書のデジタル化など遠い未来の話だった半世紀前のことである。

◆我がアパート
冒頭に載せた写真は褪色激しい半世紀前のフィルムから再生したものだが、もっと出来の良い写真をストリートビューから借用した。空模様がイマイチだが贅沢は言えない。この写真が撮影されたのは2年前の2022年だが、昔と比べて建物の外観が綺麗になっている。多分21世紀に入って外壁補修が行われたと思われる。小さなスーパーが入っていた手前のビルも改修されたようだ。ストリートビューで見る限り昔のスーパーは確認出来なかったが、オイサレ・ブルッカー通りの向こう側に小さなスーパーがあるので移転か新規開業があったようだ。当時、毎週土曜日にワイシャツのクリーニングを出していた4号線沿いの洗濯屋さんの辺りは再開発されたようで木々に囲まれた住宅団地に変貌していた。
◆ベルクキルヒヴァイ(Bergkirchweih)
駐在員事務所でコーヒーを飲んでいたら、ベルクキルヒヴァイに誘われた。Bergkirchweihと言う単語を聞き取れずにキョトンとしていたら駐在員のC氏が「鎮守様のお祭りです。」と言う。ミュンヘンのオクトーバーフェストほどではないが、バイエルンでは有名なお祭りだそうだ。シュロスガルテンの先の広場に臨時の大ビヤガーデンが出現していた。下の写真はその時に撮ったもので、エルランゲンの写真はこれだけである。
ミニアルバム(クリックで拡大・移動)
◆ アパートの掃除
日本と違って部屋の中を土足で歩き回るのだが、留守が多くそれほど汚れることもなかったので、掃除機を掛けるのは週に1度か、月に1度位だった。ベッドを使っているせいか床の汚れはあまり気にならなかった。掃除の頻度が低かった理由は他にもあって、前住者のB氏から引き継いだ「一体型」掃除機は非力な小生には重くて使い難かったのである。最近のコードレス掃除機は外観は似ているが、格段に軽くなり邪魔なコードも無く、隔世の感がある。
◆洗濯
部屋には洗濯機置き場は無く、アパートの最上階に洗濯室があった。ドラム式洗濯機6台、脱水機2台、乾燥機2台があり、洗濯機と乾燥機は代用硬貨(ミュンツ)を投入して起動するタイプだった。小生は土曜日を洗濯日と決めていたが、土曜日は混むので、8時一寸前に洗濯室に行って洗濯機を確保した。8時前は洗濯禁止なので洗濯物を投入して待っているのである。
ドラム式洗濯機での洗濯は2時間くらい掛かった。朝8時に洗濯機を確保出来ないと、その後2時間は洗濯を開始出来ないので、洗濯の終了もそれだけ遅くなるのである。朝一番に洗濯機を確保するのが肝心だった。 セット後は居室に戻って時間を潰した。順調に行っても洗濯と乾燥で4時間掛かるので、毎週土曜日の午前中は洗濯で潰れてしまった。
30年前のドイツのドラム式洗濯機は、洗濯時間が長いのと、カムスイッチで制御するため時々故障するのが難点だった。そろそろ終わる頃だろうと、居室から最上階の洗濯室に上がって行ってみると、洗濯途中で停止したままだったことが何回かあった。故障であった。操作パネルを弄ってもウンともスンとも反応しないので、 初めてこのトラブルに遭遇した時は心底困った。
応急措置としては、故障した洗濯機から洗濯物を取り出して別の洗濯機に移すことである。ところが、洗濯物を取り出すために前面の扉を開ければ、洗濯槽の水が防水フロアーを飛び越えてドッと流れ出すので困った。結局、扉を少しだけ開けては閉め、開けては閉めて少しずつ少しずつ時間を掛けて洗濯槽の水を排出し、洗濯物を別の洗濯機に移した。
洗濯機6台に対して何故か乾燥機は2台しかなく、こちらの確保も大変だった。所用時間は2時間位で、仕上がりは申し分なかった。帰国してから、日本製の乾燥機を使い始めたが、100V電源の日本製はパワーが小さいためか、乾燥の仕上がりはドイツ製乾燥機に及ばない。2000年代に登場したドラム式洗濯・乾燥機は更に乾燥の仕上がり状態が良くないのでガッカリしている。
◆自炊
日本の食材はフランクフルトやデュッセルドルフに専門店があり、家族持ちの駐在員は週末にアウトバーンを飛ばして仕入れに行っていた。小生はその方面に出張した時、序でに立ち寄って仕入れる程度だったので、冷凍の納豆も貴重品だった。とは言え、食材の入ったレジ袋を下げて空港の手荷物検査を受けるのは一寸恥ずかしかった。
エルランゲンのスーパーでも、お米(500gの袋詰め)、インスタントラーメン、醤油等は手に入った。朝食はパン、米飯、ラーメンのローテーションだった。 みそ汁の実はジャガイモやタマネギ、おかずは目玉焼きやハムエッグで、納豆や豆腐は貴重品だった。 小生は魚は好きではないので、魚が無くても平気だった。
アパート住まいになっても、昼はシーメンスの食堂、夜は街のレストランを利用したので、自炊は朝だけだった。帰国の4ヶ月位前になって、ニュルンベルクからカリフォルニア米を10Kg単位で宅配してもらうようになり、夕食も自炊するようになった。ドイツには日本式のコロッケやトンカツが無いので、面倒だったが自分で作った。
◆銀行
日本を出る時、半年分の滞在費を旅行小切手にして持参した。ドイツ語学校は授業料と下宿代を事務所で払っていたので、3ヶ月経ってもあまり減っていなかった。小切手でも大金を置いておくのは落ち着かないので、アンベルク滞在中に某銀行のアンベルクの支店に頼んで、エルランゲン支店の口座を開設して貰った。
ドイツの銀行では「預金通帳」が無く、プラケースに入った切手大の紙製のカードを渡された。当時の銀行は未だオンライン化されておらず、口座毎にファイルが作られ、別の支店で現金の出し入れを行う時は口座のある支店に電話で問い合わせしていた。日本のキャッシュカードを見せたらビックリしていた。
小生の相手をしてくれたシーメンスの社員は計算機屋さんだったので、日本の銀行のオンラインシステムやキャッシュカードに興味を示した。特にキャッシュディスペンサーのセキュリティについて興味を持ったようで下記のような問答があった。
Q「カードを紛失して他人に使われたら?」
A「暗唱コードがある。」
Q「暗唱コードのデータ構造は?」
A「4桁の数字の組み合わせだ。」
Q 「0000から順々に試したら何時か正解に辿り着くね?」
A「3回不正解だと受け付けなくなるから大丈夫。」
◆読書
日本から新刊書籍を何冊か持参したが直ぐに読み尽くしてしまった。その後、デュッセルドルフの日本書専門店と契約して、文藝春秋、週刊朝日、囲碁クラブの3誌を定期購読した。日本では拾い読みする程度だったのに、活字に飢えたドイツでは、ベッドに寝ころんで隅から隅まで繰り返し熱心に読んだ。更に、新聞は駐在員事務所で目を通していた。
技術調査の仕事は、現場の視察と担当技術者へのインタビューが主体だが、細部はドイツ語の関連資料を読むことである。毎日ドイツ語の資料と格闘していると、見ただけで頭に入ってくる日本の文書が懐かしかった。しかし、雑誌と新聞を熱心に読んでいても、日本のことは殆ど実感出来ていなかったようだ。
帰国後何年間か「昭和51年と52年」の日本がスッポリ抜け落ちている違和感を感じ続けた。違和感の原因は、海外にいた2年間の前後の年の情報量が多いのに比べて昭和51年と52年の情報量が極端に少ないためと思われる。雑誌と新聞だけでは「その国に暮らすこと」を代替出来ないことがよく分かった。