Tさんとの対局が途切れた後、中学・高校時代は全く囲碁に縁が無かったので囲碁のルールも忘れかけていた。大学に入学し た時、周囲の何かクラブ活動に入るべきと言う雰囲気に押されて、スポーツ苦手の小生は囲碁部を覗いてみた。古手のマネージャーのような人に話を聞いた結果、子供の頃の僅かな経験しか無い自分には可成りハードルが高い印象を受け入部を断念した。
その年は余り授業に出ずフリーターのような生活を送った。次の年は安保騒ぎで囲碁と全く関わり無く過ごし た。学部に移ると、授業は殆どが必修科目で、朝8時に始まって午前中100分の授業が2回、午後も100分の授業が2回あり、時間的余裕が無くなった。 それでも、製図室の片隅には折りたたみの碁盤があって、息抜きに碁を打つクラスメートがいた。
◆初めての碁会所
製図室では小生も何度か打ったが、 相手が限られていてそまま続けても上達する雰囲気ではない。もう少し本格的に打ちたいという気持ちが強くなった。囲碁部は敷居が高いので、碁会所で打とうと思ったのだが、自分のレベルでも相手にしてくれるのか心配だった。伊勢佐木町の有隣堂に行った折りに、向かいの文明堂の3階にあった碁会所を一寸覗いてみた。

お店の横に狭い階段があり、上階で焼くカステラの匂いが漂っていた。緊張しながら恐る恐る碁会所のドアを開けた。
席亭さんが棋力はどの位かと聞くので、初めてなのでどのくらいか分からないと言ったら、「じゃー、打ってみましょう!」と言って、席亭さんが相手をしてくれた。
その時の判定は記憶に無いが、文明堂の3階へ行けば色々な人と対局出来るのが楽しく病み付きになり、映画館より碁会所へ行くことが多くなった。席亭さんは「アマの第一目標は初段ですね。初段になれば後はドンドン昇段しますよ。」と言っていたが、楽しんで打っているだけで棋力はなかなか上がらなかった。
横着者なので、棋書を読んだり、棋譜を並べたり等の勉強はせず、専ら実戦を楽しんでいた。その後、この碁会 所は文明堂の3階を立ち退いて、長者町の通りに面した仕舞た屋に移転した。経済成長で伊勢佐木町の地価や家賃が上昇、薄利の碁会所は一等地での経営が難しくなったようだ。しかし、時移り、土地バブルが弾け、日本経済が停滞期に入ってしまった。文明堂のお隣の「野沢屋」は経営不振で「松坂屋」となり、その「松坂屋」も2008年秋に経営不振で閉店してしまった。
碁会所が長者町に移転してからも馴染みになっていたので通い続けた。大学の授業を抜け出して映画館や碁会所に行く時は校門の前から出る市電の「1系統」を利用した。下図はネットの「横浜市電 路線変遷図」と言うサイトと「Pinterest」と言うサイトに載っていた図を参考に作成した。映画なら長者町か尾上町、碁会所や有隣堂なら長者町と尾上町の間にあった羽衣町電停で降りた。就職してからも週末には横浜に通って、囲碁と映画を楽しんだ。文明堂は今も営業しており、伊勢佐木町に行く度に、文明堂のお店の上にあった碁会所を思い出す。

◆有楽町の碁会所
その後住まいが品川から足立に変わったため、一時的に横浜の碁会所から足が遠のいた。ある日、数寄屋橋の近くで 「男はつらいよ」を見終わって映画館を出てきた時、偶然碁会所の看板が目に入った。その碁会所は朝日新聞社に隣接した雑居ビルの中にあった。早速、覗いてみると、狭いながらかなりの碁盤があり、有楽町の駅の近くで、交通の便が良いせいか繁盛していた。ウィークデイの昼間でもサラリーマン風の男達が多く、リタイヤーには未だ間があるような常連客もいて一体どんな職業なのかと不思議に思った。また、職業不明の遊び人風の男もいた。
碁会所の席料は一日単位の固定料金が多いが、ここは固定料金に 対局料が加算される方式だった。しかも、加算料金は負けた方が払うシステムで、終局すると係りの人がカードに勝敗を記入した。僅かだが席料が賭かっているので結構真剣に打った記憶がある。この碁会所には4~5年通った。週末は10時過ぎに家を出て銀座に着くと、数寄屋橋近くの鰻屋に直行し、鰻丼で腹ごしらえした後、件の碁会所に向かった。週末以外でも、有楽町の本社へ出張 した時等は時間があれば顔を出した。

当時通勤には、往きは御徒町から国電を利用し、帰りは新橋から地下鉄を利用した。通勤定期の区間を一部ダブらせていたので、休日には地下鉄で乗り換え無しに碁会所通いが出来た。1971年(昭和46年)の夏に東京から横浜の洋光台に転居したため疎遠になった。数年後、日劇が取り壊され、朝日新聞社が築地に移転 して、跡地周辺が区画整理された時、残念ながらこの碁会所は無くなった。
横浜に転居した後は、昔馴染みの碁会所に再び通い始めたが、まもなく長者町から野毛だったか、福富町だったかハッキリしないが、小さな雑居ビルに移転した。 暫く通っていたのだが、 賭け碁をする客が騒ぎを起こしたり、碁会所の雰囲気が悪くなってきたこともあって段々足が遠のいた。
丁度、誕生間もないマイクロコンピュータと出会って、 電子回路やソフトウェアに興味が傾いたことで、家にいる時もその関係の資料や本を読み漁っていた。その上、勤務地が東京の日野に変わり、片道2時間の通勤で時間的にも余裕が無くなり、 小生としては信じ難いことだが、一時期、囲碁への関心が薄れかけていた。
◆再び横浜の碁会所
その頃、前の職場のTzさんに紹介されたのが「神奈川県囲碁センター」である。横浜駅東口のプラザホテルの3階と4階にあり、日本棋院の神奈川県支部でもあったのでかなり繁盛していた。保科さんと言う年配の地方棋士が詰めていた。ドイ ツへ行っていた2年弱は完全にご無沙汰で、信州へ赴任していた5年間も帰省した時だけだったが、結局、40年も通うことになった。
定年退職後は毎日通って、文字通り「囲碁三昧」だった。棋力も上昇しつつあったのだが、突然体調を崩して入院した。退院後しばらくは碁会所通いが復 活したのだが、治療の副作用か激しい「めまい」に悩まされるようになった。毎日、碁を打つ代わりに繁華街を散歩した。郊外でなく繁華街を歩くのは、周りに人がいれば散歩中に倒れても何とかなると思ったのである。
碁会所に2年くらいご無沙汰していたと思う。四月の暖かな午後、体調が少し回復したので碁会所を覗いてみたのである。久し振り訪れた東口のプラザホ テルは改装されて入り口の雰囲気が変わっていた。エレベータで4階に上がりビックリした。驚天動地のことが起こっていた。碁会所のあったスペースは、がらんどうで何も無い、蛻の殻だった。
1階に降りてフロントに聞くと、碁会所は廃業したが別の人が名前を引き継いで西口で開業したと言い案内図をくれた。案内図を頼りに迷いながら訪ね当てた碁会所は小さい雑居ビル(下図の曙ビル)の6階にあった。広さは以前の1/3位だった。入ると懐かしい顔があった。I さんが経営者のSさんに紹介してくれた。早速、Sさんと打ったが2局立て続けに負かされた。この時の I さんが今は横浜囲碁センター(下図参照)の代表者になっている。

上の図を描いていて残念だったのは、最初に通った文明堂ビルにあった碁会所の名前を思い出せないことである。後にTzさんに紹介された神奈川県囲碁センターは40年も通ったので忘れようがないが、その後、鶴屋町の曙ビル、更に、金港町の山来ビルと移転しており、記憶にある中に場所と名前を載せておくことにした。神奈川県囲碁センターは東口の雑居ビルに引っ越した後、段々客足が遠のいている。
神奈川県囲碁センターでは相手が限られてきたので、最近は西口の宇宙棋院に週一回顔を出している。ここは100席以上あり、いつも違う相手と打てるのがよい。関内駅前のセルテ9階にある関内本因坊には以前登録していたのだが最近はご無沙汰している。金港町の横浜囲碁センターは、代表者の I さんに「偶には顔を出してよ。」と言われているが、未だ碁席を覗いただけで打っていない。
インターネット対局に乗り換えたのか、不景気のせいか、最近は碁会所へ来る人が減少してとても寂しい。特に、若くて生きのいいプレイヤーが少ないの は残念である。 PCの好きな小生だが、ネットでは対局せず観戦だけである。打つのは碁会所が一番と思っている。最近、漫画「ヒカルの碁」の影響で子供達の間で一寸した ブームのようだが、いつまで続くのか心配である。