弘明寺

昭和34年1月のある日曜日、受験を予定していた横浜国立大学工学部を下見するため、中学のクラス会を途中で抜けて横浜に向かった。京浜急行の弘明寺駅で降りて、坂道を下りアーケードのある商店街を抜けると、 市電の走る広い通りに出た。停留所の前に正門があり、その向こうに「名教自然」の石碑が見えた。受験誌で何度も読んだ紹介記事の通りだった。

工学部校舎正面に建つ「名教自然」の碑
工学部校舎正面に建つ「名教自然」の碑

日曜日なので構内はひっそりしていた。弘明寺は工学部の前身の横浜高等工業学校創立の地で、創立時の校舎は関東大震災(大正12年9月1日)で灰燼に帰 している。小生が見たのはその後新たに建てられた校舎だと思うが、上の写真のように古めかしく一目見て “学校” と言う建物だった。その時は未だ、ここで青春時代の三年間を過ごすことになるとは思っていなかった。

人気のないキャンパスに入り込むのは気が引けたが、折角横浜まで来たのでキャンパスの周辺を一回りするつもりで歩きだした。キャンパスの裏手は丘で、踏み 固められた小道があった。その小道を辿って斜面を登ってみた。丘の上は一面の畑だったと思うが、その時期に何が植えられていたのか記憶が無い。

横浜高等工業学校は大正9年1月に設置が公布され、同年4月から授業が開始された。初代校長の鈴木煙州は三無主義(無試験、無採点、無償罰)を教育方針と した。小生が入学した頃は、既に三無主義ではなかったが、自由な雰囲気は残っていた。ただ、小生が志願した理由はそう言う雰囲気に憧れたためではなく、入試条件(理数科 重視の配点)と自宅通学が可能だったためである。

 

◆工学部跡地

旧工学部正門(現付属中学校)
旧工学部正門(現付属中学校)

たこ足大学を解消する統合事業の一環として、工学部の主要施設は昭和53年から54年に架けて常盤台地区に移転した。跡地には、付属中学校と付属養護学校が立野地区から移転した。(写真は平成16年1月撮影)

の写真では木々に隠れてハッキリしないが、工学部の建物は健在であった。鎌倉街道に面した正門前も昔の面影を残していた。

 

 

 

 

「工学部発祥の地」の石碑
「工学部発祥の地」の石碑

愛用した路面電車は地下鉄に変わり、停留所は市営地下鉄「弘明寺駅」に変わった。

正門の近くに「工学部発祥の地」の石碑(写真左)が立っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丘の上まで宅地化
丘の上まで宅地化

入学前に一度だけ歩いたキャンパスの裏手は様変わりしており、丘の上まで宅地化したため昔の面影は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

正門前から京急弘明寺駅前に続く観音通りは人通りも多く昔の面影を残していた。

◆アッと言う間の3年
追試験のお陰で何とか2度目の留年を免れ、昭和36年、工学部に進級した。工学部の授業は1時限が100分で、朝8時に始まり、午前中に2時限、午後に2時限あっ た。殆どが必須科目なので大変忙しい。小生のように遠距離通学の者には朝が辛い。小生は工業高校出身なので手を抜ける授業が幾つかあり時々失敬した。

春・夏・冬の休みはアルバイトで忙しく、普段は朝から晩まで授業があってヒマは無いのだが、実験とか設計製図等で時間を捻出した。フリーター時代に某大企業で製図を徹底的に仕込まれていたので、他の学生よりは余裕があった。スポーツや麻雀はやらなかったが映画をよく見た。そのうち囲碁に熱中して、時間を作って碁会所に通った。

在学中、専門書はかなり購入したが、期末試験が終わると直ぐに神保町まで出掛けて売却した。神保町では書店によって本の値段に差があるので、重い本を抱えて古書店街を行ったり来たりした。そのうちどの本は何処の書店で売ればよいか見当がつくようになった。横浜にも何軒か古本屋さんがあったが、東京の方が高 値で売れた。

当時は少しは記憶力があったので蔵書を処分してもあまり困ることは無かった。最近は、加齢のため一段と記憶力が減退して、手元に本が有っても、どの本のどの辺に出ていたかを思い出せないで困っている。結果的には蔵書を処分したのと変わりない状態である。もっと悪いのは立ち読みで読んだ記事を購入した雑誌の記事と混同して探しまわり時間を無駄にしていることである。

卒業研究は、指導教官のK教授が某重工業から頼まれた依託研究テーマに関係するもので、論文を作成しながら幾ばくかのアルバイト料を頂いた。K教授が、委託先にどういう報告をされたのか伺う機会が無かった。実験の途中経過を報告した後の雑談で「君、映画見るか?」と聞かれ「ハイ」と答えたところ、株主優待券を回して呉れるようになった。K教授は映画会社の株を持っていたようだ。

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卒業研究2グループとK教授

卒業研究とは別に卒業設計と言う課題があった。仲間のSから「下宿でも製図する必要がある。守衛に咎められずに学校の製図板を持ち出したい。」と相談を持 ちかけられた。一寸考えたが、正門から堂々と運び出すのが良いと助言し、小生とYが手伝って搬出に成功した。その後、Sが国有財産を返却したかどうか定かでない。

往復3時間の通学時間を製図に振り向けるため、小生も自宅用に欲しかったが、家まで運ぶのが大変なので断念した。近所の文房具屋に問い合わせたら一回り小 さい製図板なら有ると言うので急遽購入した。この製図板は最後の追い込みで1ヶ月程使用した後、 ウサギ小屋の住人には邪魔となり押入の下敷き板となった。

論文と設計書は提出したが、某重工業からの依託研究テーマの方は完了していなかったので、仲間のY、Sと一緒に卒業式の前日まで実験データを取る作業を続 けた。Yはその後も実験のお手伝いをしていたようだ。大学の5年間を振り返ると、勉強よりも色々なところで仕事をした思い出が強く残っている。

卒業後は就職することに決めていたが、何をやりたいのかハッキリしなかった。卒業研究に近い分野として、漠然とタービンの設計等を頭に描き、事務局に書類を提出した。 当時は理系の売り手市場だったので、筆記試験は無く、簡単な面接と身体検査で内定通知を受け取った。入社後、2ヶ月の研修期間を経て配属が決まったが、担当はタービンの設計ではなく生産技術だった。