ハノーバー

滞独中の1977年、ハノーバーは3回訪れた。毎回、宿と見本市会場を往復しただけでハノーバーの観光スポットとは縁が無かった。30年も前のことで、空港と中央駅と見本市会場の位置関係が曖昧で思い出せなかった。10数年前、地図を初めて作成した時はドイツの地図サイトから約30ブロック分をダウンロードして繋ぎ合わせたが、今は地図サイトからワンクリックでダウンロード出来る。

ハノーバー概略図
ハノーバー概略図

参考までに上の地図のメッセの会場部分だけを下記に示す。メッセ会場はやたらに広いので、この会場を回るだけで非常に草臥れた。会場へは中央駅から市電だったが、20年後の1997年に行った時は地下鉄が走っていた。メッセの帰りは中央駅の前の百貨店カウフホフに入って食堂で一休みするのが息抜きになり、2回目以降も毎回立ち寄ったような気がする。

メッセ会場

 

 

民宿の女主人
民宿の女主人

◆一回目
最初の訪問は有名なハノーバーメッセの時だった。メッセ開催中は世界中から人が集まるので、宿の確保が難しく、ジーメンス社のお世話になった。当時は未だ平社員だったので 、ホテルでなく民家(ホームステイ)が割り当てられた。

その家は中央駅前から市電で数分のところで、女主人はなかなか魅力的な人だった。旦那さんとは顔を合わせたのかどうかハッキリした記憶が無い。 小生の部屋は、小学生のお嬢さんの部屋で可愛い縫いぐるみや飾り物があった。

草臥れてベットに寝ころんでいると突然そのお嬢さんが入ってきて「これ私のベットよ!」と言うのでビックリした。 直ぐに部屋の主だと気が付いた。小生の滞在中はどうしているのか聞くと「メッセ中はお祖母さんの部屋で寝ている。」とのことだった。

この家には既にポーランドから来た技術者二人が泊まっていた。彼等とは朝食の時に顔を合わせただけだったが、小生は「共産圏=全体主義と秘密主義」との思いが強く、資本主義のショウウィンドウと言われた西独での二人の行動に興味を持った。

毎日二人で手分けして山のような資料を持ち帰っていた。どうやら見本市を通して西側の技術情報(カタログ、技術資料)を集めることがノルマのようで、朝食の席でも昨日集めた資料について意見を交わし、今日の計画を話し合っているようだった。“束の間の西側滞在” について感想を聞きたかったのだが遠慮した。

ハノーバーメッセの印象は、“見本市会場の広さ”に驚いたことだった。有名なメッセを一度見てみたいと言うだけで、テーマも目的もハッキリせずにハノーバーに来たので、残念ながら見本市調査の的を絞れなかった。 それでも ポーランドからのお二人さんに刺激されて、結構カタログを持ち帰ったと記憶している。

◆ミニミニアルバム(クリックで拡大・移動)

 

◆2回目
コンピュータ関係の見本市(CeBITの前身?)で開催されたフォーラムに出席するためハノーバーを訪れた。CeBITが始まる10年も前のことで、混雑もなく、個人でも部屋を確保出来た。フォーラム参加者は優雅な昼食付きだったと記憶している。見本市では、シーメンスが出品した世界初のレーザー方式ラインプリンタのデモが印象に残っている。

◆3回目
工作機械見本市に関係会社のO氏を案内した。O氏が開発部門所属の頃、新製品の生産技術を小生が担当したので旧知だった。この時も宿の手配はジーメンス社に依頼した。以前のホームステイでは、朝のトイレ問題 (ラッシュアワー)を経験したので、今回は民宿を避けるため同行のO氏の肩書きを一寸粉飾して申し込んだ。その結果、ホテルの比較的良い部屋を確保出来た。

O氏の出張目的はデジタル制御の板金加工機を欧州で販売するため提携先を見付けることだった。ハノーバー滞在中の二日間は、板金加工関連の展示場で各社のブースを虱潰しに回って、デジタル制御の板金加工機を売り込んだ。最終的にドイツ、スイス、オランダから各1社ずつ選定し、メッセ終了後の訪問を約束することが出来た。

◆4回目(番外)
20年後の1997年、出向先の財団の仕事でベルリンの会議に出席した。偶々、同時期にハノーバーメッセが開催中だったので、ベルリンの会議終了後再訪した。街は市電が地下鉄に変わった点を除くとあまり昔と変わらず、メッセ期間中のホテル難も昔と同様だった。ハノーバーのホテルは諦めて二日間、ハンブルクのホテルから特急列車でハノーバーに通った。