囲碁との出会い

終戦後疎開先の東北から東京に戻り、南品川に住んだ。街の中心を南北に旧東海道が走り、その道を挟んで雑多な商店が並んでいた。 広重の時代、東海道の片側は松並木に接して直ぐ海だったようだが、小生が住んだ昭和の時代には埋め立てが進み、旧東海道から東京湾の岸壁まで徒歩で 15~20分程掛かった。埋め立て地は古い街より1mほど低く、中小の工場が密集していた。

昭和20年代~30年代の南品川
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一方の古い街区には江戸時代から続く由緒ありそうなお寺が幾つもあった。品川も空襲は受けたと思うのだが、大森・蒲田と違って焼け野原ではなかった。従って旧東海道沿いの商店街は殆どが戦前からの建物で、中にはやっと立っているような古い建物もあった。商店に混じって何軒か仕舞た屋があったが、そのうちの 一軒が碁会所だった。

看板に「囲碁」と書かれていた。小生の遊び仲間は「五目並べ」に対して「囲碁」を「本碁」と呼んで区別していた。碁会所は夏になると引き戸を開けっ放しにするので大勢の人が観戦していた。 小生も人だかりに誘われて時々覗いてみた。盤上の白と黒の石が織りなす複雑な模様を見て「囲碁」に魅力を感じ、何とか囲碁のルールを知りたいと思った。

しかし、一寸覗く程度では囲碁のルールを推測することは出来なかった。特に「コウ」に関する着手制限は見ているだけでは読み取ることは出来なかった。家の近所では将棋が盛んで、小生も仲間や大人とよく縁台将棋を指したが、碁会所以外の場所で囲碁の対局を見たことが無かった。周りの遊び仲間の家には碁盤など無かったし誰も「本碁」のルールを知らなかった。

書店の趣味関連コーナーを覗くと、「囲碁入門」とか「置碁の勝ち方」と言うような囲碁関係の本があった。子供なので立ち読みも難しく、乏しい小遣いを割く程の熱意も無いので本は買わなかったが、子供の浅知恵と言うか、“本碁”には「囲碁」と「置碁」と二種類あると誤解してしまった。こうした誤解もあって、囲碁は益々近寄り難い存在だった。

偶々、一度だけ同級のY君の家に遊びに行ったことがあった。凄いお屋敷だった。案内された部屋の片隅に碁盤があった。Y君に聞くと「本碁」を知っていると言う。突然のチャンス到来である。嫌がるY君に懇願してルールを教えてもらった。Y君は最も基本的な「四つ目殺し」 と「コウ」について説明してくれた。囲碁は単純なルールの上に構築された複雑なゲームだと思った。

療養中のTさんと対局

近所で病気療養中のTさんと時々将棋を指していたが、ある時、小生が「囲碁」を知っていると言うと、次回は将棋でなく囲碁をやろうということになった。こうして「四つ目殺し」しか知らない小学生と全く初めてのTさんの対戦が始まった。 半世紀も前のことである。

段々熱が入ってきたTさんは、入門書を購入して研究を始め、本から仕入れた知識を小生に教えてくれた。「シチョウ」などは、既に実戦で知っていたが、それを囲碁用語で「シチョウ」と呼ぶことはTさんから教わった。Tさんは二回りも年上の弟子であり、師匠であり、最初の碁敵だった。この対戦は半年位続いたと思うが、どうして終わってしまったのか全く記憶に無い。

Y君のワンポイントレッスンとTさんとの対局で、意識せずに「囲碁入門コース」を終了出来た。子供の頃に囲碁の世界を垣間見ることが出来て幸運だった。後年、大学の2年生の頃、容易に囲碁の世界に入れたのも、子供の頃の細やかな入門経験のお陰であ る。サラリーマンになってからも、隠居生活に入った今も「我が囲碁熱」は冷めないで続いている。南品川の古びた碁会所、Y君のワンポイントレッスン、数ヶ月続いたTさんとの超ザル碁、等々に感謝!である。