東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)に大学を卒業して、富士電機に入社した。2000年(平成12年)に定年退職するまで36年間在職した。その間、何回か転勤しているが、川崎工場地区と東京工場地区では本社技術部門の中での異動である。1991年(平成3年)の松本工場に赴任したのが転勤らしい転勤と言えるかもしれない。

◆川崎工場地区
上のマップで示すように川崎では二度勤務している。入社時、2ヶ月間の新人教育と現場実習の後、川崎工場に赴任した。正確には工場に同居する本社部門である。職場の昼休みには囲碁が盛んだった。小生も昼食を5分位で済ませて対戦した。正直な話、新人に与えられる仕事より碁の方が面白かった。
工場では年に1度か2度、囲碁部主催で職場対抗の囲碁大会が開催された。大会が近づくと、各職場では大会のための特訓を行った。私の職場でも終業後に地下 室で強化訓練をした。本業の方では残業などせずに定時に退社する小生だったが、囲碁で遅くなるのは厭わなかった。特訓の効果はあまり無かったと思うが、大 いに囲碁を楽しむことが出来た。

昼休みの他に、毎年会社の保養施設を使って泊まりがけで、部内囲碁大会が開催された。入社した年の大会では初参加の小生が優勝してしまった。 甘めのハンディが有利に働いたのである。新人のため仕事の方は未だパッとしなかったので、遊びではあっても一応の存在を示せたことが嬉しかった。益々囲碁に熱中するようになった。
サラリーマンの世界に人事異動は付き物で、部内で唯一の有段者だったEさんが他の事業所に転属してしまったため、部内の囲碁熱がやや停滞し、昼休みの碁も低調になった。当時の記憶は曖昧なのだが、川崎駅前の日航ホテル内にある碁会所が小生の道場だったと思う。
職場の囲碁熱が低調になったこの時期だが、皮肉なことに工場の 囲碁大会で2~3期連続で団体優勝した。職場の碁が低調で碁会所で打つことが多くなったところで、私自身が日野の工場へ転勤した。新しい職場には相手がいなかったが、近くの職場に囲碁愛好家がいて対局していたので、昼休みは専ら観戦することにした。
◆海外出張
新しい職場に赴任して半年ほどで、技術提携先のドイツの電機メーカー、シーメンス社に長期出張した。研修を兼ねた技術調査で、ドイツ国内にある事業所の半数近くを訪問した。ドイツにも碁狂がいて、工場に日本人の訪問者が来たと聞いて「お前は碁をやるか?」と尋ねて来るドイツ人社員もいた。
そう言う場合は出来るだけ、時間を遣り繰りして、終業後のオフィスの片隅で対戦した。大抵数人の同好者が同席して観戦するか、彼ら同士でも対戦した。この点は日本の囲碁愛好者と同じである。ミュンヘンの研究所では調査相手のM氏が囲碁愛好家だった。ある週末、ミュンヘン郊外にあるM氏宅に招かれて打った。
M氏は以前に来日経験があり、日本語の碁の本も所有していた。簡単な「漢字-独語」の辞書も持っていて、本の解説の「黒良し」等は理解出来たが、”ひらがなばかりの部分”が分からないとのことだった。訪問した日も、幾つか質問を受けた。実力は小生に「先」か「二子」だったと思う。夜遅くなっても「もう一 局」と言うので閉口した。
ドイツでは碁会所に代わるものとして、週に1度位のペースで、カフェ等で囲碁の例会が開かれると聞いていたが、 M氏は長考派のため敬遠されていて、対局の機会が少ないようだった。M氏は長考の上に棋譜を採るので時間が掛かるのである。インターネットの発達した最近はM氏も容易に対局相手を見つけられることと思う。
◆東京工場地区以降
転勤して半年でドイツへ長期出張したため、東京工場地区での本格的勤務はドイツから帰国した後に始まった。横浜の洋光台から東神奈川、八王子を経由して豊田まで通勤時間2時間強の遠距離通勤である。東神奈川から八王子までの一時間はほとんど居眠りしていて不足しがちな睡眠時間を補っていた。職場には囲碁をやる者がいないので昼休みは他の職場で観戦するだけで碁石に触れることはなかった。
鈴鹿の工場へ出張して工場の宿泊施設に泊まった時、偶々囲碁好きのTzさんが泊まっていたので、夕食後に碁を打った。始めは「二子」で、次に「先」で打って連勝した。Tzさんはアルコールが入っていて不覚を取ったと思うが、 日頃歯が立たない強豪のTzさんに連勝して、大いに自信を持った。錯覚かもしれないが、その後の棋力向上のきっかけになったと思う。
日野の工場に5年ほど勤務した後、古巣の川崎に戻った。職場の昼休みは囲碁ではなくトランプが全盛だった。再び川崎から日野、更に松本(信州)へと転勤し たが、職場で碁を打つことは全く無くなった。信州の工場に赴任していた5年間、麻雀は毎週だったが、碁石に触れるチャンスは無く、年に1~2回開催される日本棋院・中部本部(名古屋市)の囲碁大会に顔を出すくらいだった。
◆出向先
退職前の4年間、通産省の外郭団体に出向した。その職場では同業T社から出向してきているAさんと大手建設会社から出向してきているFさんが昼休みの碁を楽しんでいた。街でゆっくり昼食を取る小生は、何時も後半戦を観戦するだけで序盤戦を見ていないが、直ぐにA氏の棋力が並々ならぬことが分かった。A氏と一緒に東京大学のS先生の研究室を訪ねた帰り、碁会所があったら打とうと探したのだが見つからず、打つ機会を失した。
日本棋院では職場対抗のジャンボ囲碁大会と言うのを毎年開催している。1チーム15名の団体戦で、富士電機も参加していたが、A氏はT社のメンバーとして出場、会場では何度か顔を合わせた。高度経済成長と共に我々の生活レベルは上がったが、それに反比例して職場の囲碁熱は低下していった。会社の経費節減方針で囲碁部への援助が打ち切られた後、ジャンボ囲碁大会に2~3回自主参加していたが、なかなか枠抜けが出来ないのでメンバーの参加意欲も低下、だいぶ前から参加しなくなった。
◆退職後
退職した後なので正確には職場の碁とは言えないが、退職後も年1~2回開催される会社の囲碁大会にOBとして参加していた。苦手の時計を使うので苦戦することが多いが、優勝したこともある。ただ、体調の関係で一二度ドタキャンしたことがあり、ここ数年は案内が来なくなった。幹事さんも高齢化しているので開催しているのかどうか分からないが、ソロソロ潮時かもしれないと思いそっとしている。

昨年の春から、旧職場の有志数名が集まって春と秋に碁会を開いている。メンバーは退職したばかりの若手?から小生より5年くらい先輩の古手まで多士済々である。時計は使わないが、皆さん早打ちなので1局1時間くらいで終了する。あまり考えずに打っているのだが結構疲れる。碁会の後、飲みながらの検討会は囲碁から離れて若い頃の思い出話になるのが老人の集まりらしくてよい。