メキシコ入国

JICAの「メキシコチワワ州高度技術センター技術協力事業事前調査団」の団員として現地で事前調査を行うためメキシコに出張することになった。民間企業の社員は形式的に「(財)エンジニアリング振興協会」に出向して協会の研究員として参加するとのことだった。小生も出国前と帰国後の二度だけ同協会に顔を出した記憶がある。その後、新宿のJICA事務所で調査団メンバーの顔合わせがあった。団員はJICA2名(S氏、Y氏)、通産省1名(Oz氏)、静岡県工業センター1名(F氏)、I重工1名(O氏) 及び小生の6名だった。

小生が持つメキシコのイメージは、貧困・感染症・治安の悪さ等々マイナス面が多かったので、メキシコで高度技術が必要なのか尋ねると、本事業は通産省の所管なので、労働省の事業と差別化する必要上 ”高度技術” の冠を外せないとのことだった。しかし、小生のマイナスイメージと事業名の ”高度技術” にギャップがあり、違和感を覚えたが、原因は役所の縄張り争いらしいと考えで納得することにした。取り敢えず、JICAが担当してきたこれまでのODA事業に関する資料を読み、メキシコの観光ガイドブックを入手して泥縄の「メキシコ入門」を始めた。

公用旅券
公用旅券

◆出国
暮れから正月にかけて、出張準備で気忙しく落ち着かない日が続いた。
1月7日に天皇陛下の崩御が発表され全国に衝撃が走った。日本中で歌舞音曲は自粛することになった。職場の仲間が予定していた小生の壮行会も中止で、数日後に会場を変えて開催された。

出発直前の週末、調査団員の委嘱状・公用旅券・航空券・旅行小切手等を受け取るため、指定された時間にJICAの事務所に行くと、VISAの取得が遅れているとかで暫く待たされた。濃緑の表紙の「公用旅券」はこの時初めて見た。1989年1月16日(月)、JL012便で出国した。

東京ーメキシコ間飛行ルート
東京ーメキシコ間飛行ルート
F氏(左)と並んで
F氏(左)と並んで

JL012便は月曜と木曜の週二便あり、どちらも17時15分に成田を出てメキシコシティ到着が18時00分となっている。

途中で日付変更線を超えるので時間の計算がややこしい。成田→バンクーバー が8時間40分、バンクーバー→メキシコシティ間が5時間15分で計14時間弱だが、バンクーバーで2時間弱の待ちがあった。

小生の席はF氏と並んだ席で、客室乗務員と向き合う位置だった。彼女等が席に着いていたのは離着陸時だけだったが、睨めっこしているわけにもいかず、話し上手のF氏が会話をリードしてくれた。

バンクーバーまでご一緒した客室乗務員
バンクーバーまでご一緒した客室乗務員

話の種が尽きて最後は写真を撮らせて貰ったが、F氏は写真を送るからと言ってアドレスを聞き出していた。帰国後写真を送ったかどうかハッキリしない。

 

 

 

 

 

バックーバーからの客室乗務員
バックーバーから同行の客室乗務員

バンクーバーでクルーが交代したので、今度も似たような会話を交わした後、写真を撮らせて貰った。

メキシコが近づき入国審査用書類が配られた。記入要領には「カメラを2台以上持ち込む場合は申請せよ」 と書かれていた。正直に書くと面倒なことになりそうなので「知らぬ顔の半兵衛」を決め込むことにして申請しなかった。

 

 

◆メキシコ入国
メキシコ空港の狭い到着ロビーは人が溢れていた。騒然とした異様な雰囲気の中「公用旅券の効用は無いのか?」と思いつつ人の群れの後ろに付いて待っていると声が掛かった。JICAの現地駐在員が「調査団員の入国審査を優先してくれるよう」話を付けてくれ たらしい。公用旅券の効果ではなかったが、駐在員の方は色々なノウハウを持っているようだった。

団員の荷物は手押し車に積み重ねていたのだが、審査官は一番上のトランクを開けるよう指示して入念に調べていた。運の悪いトランクの持ち主は団長のS氏だった。 団長のトランクが潰れないように、何方かが気を遣ったことが、裏目に出たようだった。小生はトランクに入れた2台目のカメラを申請しなくてよかったと安堵したが、団員を代表して犠牲になったS氏は暫く御冠だった。

ホテル近くのレストランで軽い夕食
ホテル近くのレストランで軽い夕食

空港からホテルまで、JICAの車(SUV)にギュウ詰めになって移動した。暫く部屋で休んでから近くのレストランに行った。

レストランと聞いたので、小生は正装したのだが、機中で正装だった皆さんは逆にラフなスタイルで登場した。

初めてのメキシコ料理はタコスだった。疲れていてあまり食欲は無かったが、初めてのメキシコビールとタコスは美味かった。

 

 

マイペースで食べる運転手氏
マイペースで食べる運転手氏

Oz氏は前に駐在経験があり、知人と会うとかで夕食は欠席。空港からホテルまで我々を乗せてくれたSUVの運転手さんは参加した。

ところが、我々が食べ終わって引き上げようとしているのに、彼は悠々と食べ続けていてなかなか切り上げないので弱った。ラテン流か?

 

 

 

ブリストルホテルの居室
ブリストルホテルの居室

レストランから戻って、直ぐ寝たのかどうか記憶が無いが、翌朝、寝坊してフロントからの電話で起こされたことはよく覚えている。