蒲田&空襲

 1941年(昭和16年)に東京・蒲田で生まれ、空襲で焼け出されるまで蒲田に住んでいた。僅か4年間で、しかも物心のつく前だったのでその頃の記憶はほとんど無いが、自宅の玄関前の佇まい、 庭の防空壕、近所の町工場の廃材置き場、呑川に架かる橋の袂の光景などが微かに記憶に残っている。比較的ハッキリしているのは空襲の夜に起こされて逃げたことである。

◆生家
小学校低学年の頃までは生家の位置を朧ながら覚えていた。戦後は隣の品川区に住んでいたので、一度だけ生家の跡を訪ねたことがあったが、いつの間にか日常の生活の中で関心が薄れて忘れてしまった。最近、昭和16年の蒲田区の詳細図を入手したので、その古地図と昔の番地から地図の上でその位置を確認した。これを見ると幼児期の記憶によく符合していると思う。

  昭和16年当時の京浜蒲田駅周辺
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★空襲
空襲の夜、四歳だった小生は父に背負われ、一歳の妹は母に背負われて逃げた。小学生だった兄は東北の叔母のところへ疎開していたので空襲に遭わずにすんだ。逃げている間 “ずっと背中で震えていた” と、後で聞かされた。 真っ赤に染まった夜空に低空で飛ぶ敵機を見たような記憶もあるが、後年見た映画の空襲シーンとゴッチャになってしまい実際の体験かどうか自信がない。

避難途中で寝てしまったのか、逃げた後どう過ごしたのか記憶に無い。翌朝、生家のあった場所に戻ったが一面の焼け野原だった。逃げたとか炒り豆を食べたとか「行動」については覚えているが、焼け野原を見てどう感じたか「感情」は全く記憶に残っていない。疎開のために荷造りして貨車待ちだった家財道具もきれいサッパリ灰になった。4歳の幼児がどんな感想を持ったのか興味はあるが覚えていないので何ともならない。

逃げる途中はぐれてしまった祖父は、橋の下で一夜を過ごしたそうで、無事再会することが出来た。天神様の境内で町内の集会が行われた。集会の時、支給され た“炒り豆”を鉄兜に受けて食べたことを覚えている。 その後のことは記憶に無いが、 何とか葉山の親戚の処に辿り着いたようだ。戦災前後の小生の記憶は、真っ赤に焼けた夜空と炒り豆だけがハッキリしている。

葉山で暫く過ごした後、母の妹の嫁ぎ先を頼って、宮城県古川市(現大崎市)に疎開した。古川で住んだアパートの記憶は殆ど無い。祖父は疎開先のアパートで 亡くなった。 葬儀の祭壇に供えられたサクランボを狙っていたのだが、何かに紛れて食べ損なってしまい悔しがった記憶がある。戦争が終わって東京に戻り南品川に住んだ。


[参考]
hyakkien-kusyu2s60年前の網老人の頭に刻まれた“真っ赤に焼けた夜空と炒り豆”の記憶は何時までも残っている。最近、百鬼園先生の日記「東京焼盡」の中で「蒲田空襲」にチョッピリ触れられていることを知った。

「東京焼盡」は、  1944年11月1日から1945年8月21日までの戦時日記である。ちくま書房より文庫版が出た。偶々、このページを作成していたので注意して読んでいたら、冒頭の「序ニ変ヘル心覚」に1行、本文中に数行の記述があった。

 

 


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ある資料によると、1945年4月15日未明の大田区(当時は大森区と蒲田区)への空襲では、6万余戸が全焼し、23万人が焼け出された。
特に蒲田区では全戸数の8割を失ったそうである。

別の帝都防空本部情報第170号によれば、蒲田区は全区の99%焼失となっている 。

建物の焼失の割に、3月10日の江東地区のような大惨事にならなかった。理由は、住民が軍の防火命令を無視して、空襲が始まるとただちに安全地帯へ避難したためと言われている。お陰で小生も焼け死ぬことなく、なんとか生き延びて古稀を超えられた。