富士電機には1964年(昭和39年)の入社から2000年(平成12年)に定年退職するまで36年間在職したが、その間、勤務地は、川崎→東京→川崎→東京→松本→虎ノ門と変わっている。とは言え、川崎工場と東京工場では本社技術部門内での異動なので、1991年(平成3年)の松本工場への赴任が転勤らしい転勤と言える。松本の5年間以外は、朝も夕も定期券のお世話になった。定年後の碁会所通いでも通勤定期券を使い続けている。

◆川崎工場
川崎勤務中、小生は4ヶ所に住んだ。入社当時は南品川で、最寄り駅が京浜急行の「青物横丁」だった。通勤には京浜急行と臨港バスを利用した。その後、足立区竹の塚に移転したので、東武伊勢崎線、地下鉄日比谷線、京浜東北線、東海道線、臨港バスを乗り継ぐかなりの遠距離通勤になった。遠距離通勤は大変なので、工場に近い大田区南六郷に転居。ここに10ヶ月ほど住んだ後、横浜の洋光台に引っ越した。

●南品川からの通勤
入社当時は青物横丁から京浜川崎まで京浜急行を利用した。川崎駅前から工場までは「川崎鶴見臨港バス」と言う会社が運営する路線バスが3~4系統あったが、朝晩の通勤時間帯に運行される急行バスを利用した。急行バスの乗り場は駅から離れていたが、早く確実に到着するので朝は急行バス一択だった。
● 竹の塚からの通勤
2~3年後に足立区に転居、5種類の交通機関を乗り継いでの遠距離通勤になり、6時前に家を出た。朝は東京駅で東海道線に乗り換えたが、帰りは新橋で地下鉄を利用した。仲御徒町ー新橋間の延長区間は自己負担だったが、座って帰れるので楽だった。
ある早朝、駅へ行く途中で数頭の野犬の群れに囲まれたことがある。犬達と睨み合いながら建物に沿って少しずつ身体を移動した。車の通る道路へ出るまで10分くらい掛かったかもしれない。その後は多少遠回りの道に変えた。
その頃、別の課のA係長から「富士通の講習会」に誘われた。西洋料理の昼食と午前と午後にコーヒーブレイクがあると聞いて飛び付いた。偶々、雑誌「機械の研究」の特集記事を読んでコンピュータに興味を持った頃だった。
肝心の講習会はCOBOL言語の講習だったので、技術者向きではなかったが、講師の先生から「貴方はセンスがある」と煽てられ、一週間 COBOL に熱中した。これが後年のマイクロコンピュータの仕事に繋がったかもしれない。
● 南六郷からの通勤
昭和45年夏に公団住宅の抽選が当たり「南六郷二丁目団地」に入居した。団地の入り口近くに「水門前」と言うバス停があり、羽田空港から川崎駅東口へ行く京急のバスが通っている。朝はこのバスが便利だったので、回数券を買って利用した。会社支給の定期券は臨港バスと京急の「京浜川崎ー雑色」だったと思うのだがよく思い出せない。翌年の夏、分譲住宅の抽選が当たり、7月初旬に洋光台に転居したので、僅か10ヶ月の仮住まいとなった。
● 洋光台からの通勤
昭和46年の夏、横浜の洋光台に移った。当時は未だ根岸線が大船まで通っておらず洋光台が終点だった。朝は始発電車なので必ず座ることが出来たが、転居して1~2年で根岸線の工事が完成して大船駅が始発駅となった。洋光台は始発駅の特権を失って普通の駅になった。川崎まで35分くらいなので、家を6時45分頃出た。ルート図は載せていないが、洋光台と工場の位置関係は下のスト権ストのマップを参照されたい。
◆東京工場
昭和50年10月21日付けで川崎工場地区から東京工場地区に転勤した。所属は生産技術部で変わらないが、部内にマイクロコンピュータを使って生産ラインの自動化を推進する新しいグループが誕生し、その拠点が東京工場地区になったのである。当時の μ-CPU は性能が低く、プログラムの作成にはミニコンや大型計算機を使ったクロスアッセンブルが必要で、システム関連の技術部隊が集中する東京工場地区が何かと便利だったのである。
●洋光台からの通勤
下図で「普段の通勤ルート」表示したように、根岸線・京浜東北線、横浜線、中央線を乗り継ぐ遠距離通勤で2時間弱掛かった。毎日5時起きなので慢性的な睡眠不足だったが、横浜線は東神奈川始発なので必ず座れて1時間の睡眠時間?が確保出来た。ただ、当時の横浜線は古い車両が使われていて、盛大な隙間風と停車中はドアが解放されるので、冬の早朝は耐え難い寒さだった。座席の下に暖房機がある場所を確保して寒さを凌いだ。

● スト権スト
新職場で1ヶ月経過して遠距離通勤に慣れた頃、11月26日から12月3日まで国鉄のスト権ストがあった。正規の通勤ルートでも大変だったが、スト中は更に過酷な遠距離通勤だった。5時前に家を出て、タクシーと私鉄を乗り継いで、始業時間ギリギリに工場の門を潜った。年末闘争中の富士電機労組も国鉄ストに呼応して連日半日ストを決行、午後は連日決起集会が開らかれた。
平組合員だった小生は午後2時頃に解放されたが、帰りは通勤時間帯でないこともあり朝より時間が掛かった。国鉄のストは土日を挟んで次の週まで続いたが、次の週の状況は全く思い出せない。多分、富士労組は国鉄より先にストを中止したと思われる。スト中でなければ、休暇取得や出張は容易なので、残りの国鉄スト中は古巣の川崎地区に出張と言う形で、過酷な遠距離通勤を避けたと思われる。
◆松本工場
松本では借り上げ社宅に入った。入居前に候補物件を3~4件見て回り、清水地区の物件を選択した。小生は車を持たないので、目の前がバス停で近くにスーパー「西友」があることが決め手になった。住宅公団が優良な住宅を普及させる目的で、建物の設計・施工と建設資金の融資等を行う方式で建設られた3階建てのアパートであった。大家さんは同じ敷地内に住んでいて、お茶の販売店を経営していた。

一応、バス通勤するつもりで総務の担当者にバスの定期が欲しいと言うと、工場の規定では我が社宅は徒歩通勤の範囲なので定期券も回数券も支給出来ないと言う。やむなく自分で回数券を購入した。ただ、途中で駅から工場に行くバスに乗り換えが必要で、足の便はあまり良くなかった。そのうち、仕事が忙しくなって帰宅時間が段々遅くなり、疲れが貯まって目覚まし時計ではなかなか起床出来なくなった。バスでは間に合わない朝はタクシーを呼ぶようになった。結局、バス通勤は1~1.5年で挫折し、その後はタクシー通勤になった。
◆虎ノ門(製造科学技術センター)
1996年に旧通産省の外郭団体、財団法人国際ロボット・エフ・エー技術センター(IROFA)に出向し、FAの国際標準化を担当した。財団は1997年に設立目的の範囲を広げたため、財団法人製造科学技術センター(MSTC)と改称した。その後、2012年に一般財団法人となったことを最近知った。小生の在職した頃は財団の事務所は虎ノ門第9森ビルにあったが、その後何回か虎ノ門界隈を移転、現在は虎ノ門第5森ビルに居を構えている。
転勤前に富士電機の本社で、洋光台→桜木町→中目黒→神谷町、と言うJR・東横線・日比谷線のルートで定期券を用意して貰ったのだが、東横線は意外と時間が掛かることが判明して、3日くらい使っただけで、洋光台→新橋→虎ノ門のJR・銀座線ルートに変更して貰った。MSTC在職中の4年間はこのルートで通勤した。財団はセミ・フレキシブルタイムを採用していたので、小生は一寸遅めの出勤時間を設定していた。
◆定年後は碁会所勤務?
学生時代~サラリーマン時代の約半世紀を通じて、知らず知らずの内に「習慣性通勤中毒症候群」に罹っていたようだ。毎日決まった時間に出掛けないと落ち着かないのである。そこでJRの定期券を購入して碁会所に通うことにした。お陰で「習慣性通勤中毒症候群」は抑えられ 、囲碁三昧の隠居生活が2年ほど続いた。ところが突然異変が起き、生まれて初めて救急車のお世話になった。
退院して碁会所通いを再開したが、2~3ヶ月後に原因不明の酷いめまいに見舞われ、碁が打てなくなった。碁会所で碁を打つ代わりに駅周辺の地下街や量販店の中をウロウロ歩いた。散歩なら緑の多い郊外や公園が良いのだが、小生の場合は「めまい」でフラフラしているので何時倒れるか分からないため、周りに大勢の人がいる方が何となく安心なのである。その後、体調が少し落ち着いたので、今は一日おきに碁会所に顔を出している。