就学前・小学校・中学校時代は南品川を中心に北品川・大井町・鮫洲など徒歩で20~30分の狭い範囲が生活圏だった。現在は高層ビルが林立る品川駅の裏手も当時は未だ入り江が残っていて、ハゼ釣りが盛んだった。その辺りは「まうら(=真浦?)」と呼ばれていたのだが、古い地図を見ても記載が無く、正式な地名だったのかどうか分からない。
真浦(?)と鮫洲の入り江は小学生の我々にとってもハゼとボラの「釣り場」だった。近場に飽きると六郷までハゼ釣りに遠征した。 当時の六郷の河川敷は一面トウモロコシ畑で、その向こうに海水浴場(?)があった。遠征と言えば、二子玉川の花火大会や洗足池の貸しボートも楽しい思い出である。ボートは大人の同伴者無しでは貸してくれないので、近所のS青年を誘って行った。
自宅と小学校の間に旧東海道 (下図の赤い点線)があった。細い道だが沿道には駄菓子屋・米屋・和菓子屋・薬屋・豆腐屋・魚屋・肉屋・八百屋・蕎麦屋・パン屋・洋品店・床屋・銭湯・文具店等なんでもあり便利だった。小学生の頃は未だ食糧難が続いていたので、コッペパンを買うにも、もり蕎麦を食べるにも食券が必要な時代だった。数年前、旧東海道を歩いて、今でも幾つかのお店が残っているのを確認した。

◆遊び
当時、親は生活に追われていたので、小生は殆ど放任状態で、誠に自由に過ごすことが出来た。 家で勉強することはなく、普段は近所の広場や路地裏で遊んでいた。虫取りや魚釣りではお台場(現在の品川埠頭)や鮫洲の試験場周辺までが縄張りだった。稀に、電車に乗って二子玉川や六郷土手にも遠征した。
以前、NHKのバラエティ番組「お江戸でござる」を見ていたら、品川の海晏寺に紅葉狩りに行く話が出てきた。第一京浜国道の向こう側にある海晏寺は我々の縄張りではなかったが、時々遊びに行ったので懐かしかった。 江戸時代に紅葉の名所だった海晏寺だが、戦後の一時期は手入れが行き届かず木々や池は荒れていた。
上級に進むにつれて同年の友人達は勉強が忙しいのか余り遊ばなくなり、いつの間にか周りは年下ばかりで自然に「ガキ大将」的存在となった。お母さん方は「ヒロちゃん(=小生)に預けておけば安心」と言う感じで、今風に言えば、ボランティアの指導員だったかもしれない。学校から帰ると仲間を集め「何をするか」指示した。
戦後の街にパチンコが登場した時、子供の出入りは自由だった。(本当は最初から禁止されていたのかも) 小生は大井町駅周辺のパチンコ店で何度か遊んだ記憶があるが、直ぐに子供の出入りは禁止されてしまった。メンコやベーゴマも学校から禁止令が出たので校庭では自粛していたが、家に帰れば路地裏でメンコもベーゴマも盛んに行われた。
“負けたら全てを失う” と言った賭け事の緊張感は子供でも一度知ったら忘れられない面白さだったが、賭け方が段々エスカレートしていったので、学校が禁止令を出すのも頷けた。
当時の子供の賭け事としては、ベーゴマが一番奥が深かったように思う。グラインダーで加工して巧く芯が出たベーゴマとプレーヤーの技術がマッチすると負け知らずであった。
近所の町工場に出入りして、ベーゴマを加工するのは子供にはかなり危険な作業で、指先の肉をそぎ取られた友人もいた。旋盤で加工したものも登場したが、必ずしも強くはなかった。
加工精度だけでなく、素材、 外径と高さの比、円錐の軸と実際の重心のズレ等、ベーゴマの強さには色々な要因が絡んでいるようだった。そうした物理的・機械的要素とは別に回し手の技術というか技能が重要で、ひもで巻いたベーゴマを手元から放出する時の力の入れ具合、紐の引き具合などが、ベーゴマの回転エネルギーに大きく影響しているようだった。
野球はあまり好きではなかった。目が悪かったせいか飛んでくるボールは苦手でちょっぴり恐れを抱いていた。仲間にはボールが怖いとは言えず渋々遊んでいた気がする。相撲は好きだった。低学年の頃、校庭でクラスメートと相撲をとった。強そうに見えた相手が意外にも簡単に倒れるので、初めて自分は相撲が強いんだと気付いた。
既に述べたようにハゼ釣りはよく行った。場所は鮫洲、天王洲、六郷土手だった。岸壁で水の汚れ具合が分かり、戦後の生産活動の回復を実感した。三年生の夏だったと思うが、大森海岸の海水浴場が閉鎖されると言うので 近所の人と行ったことがある。水から上がると全身の毛穴の周りが真っ黒になったのでビックリした。
◆映画・ラジオ・TV
戦後暫くは映画の黄金時代だった。映画館は大井町駅周辺に何軒かあり繁盛していた。お金が無いので「タダで映画館に潜り込む方法」を色々考えたが実行出来なかった。夏の夜に近所の公園や校庭で催される映画会も楽しみで、風に揺れるスクリーンを我慢しながら古い映画を見た。阪妻の「破れ太鼓」も最初に見たのは野外だった。非常に印象に残った作品だった。
映画と並んでラジオも楽しみだった。父の手製の並4受信機でラジオドラマやラジオ歌謡を楽しんだ。 その後、受信機は「並4」から「スーパー」に昇格したが、手製の箱に収めていたので外観は貧弱だった。日本が戦後初めて参加したヘルシンキオリンピックの中継放送もあった。水泳競技では既にピークを過ぎた古橋選手が敗れるシーンを聞いたのが記憶に残っている。
6年生の時、テレビ放送のデモを見学する機会があった。テレビ放送が開始される前で、場所は五反田の星薬科大学の講堂だった。舞台の上の歌手や踊り子が演技しているのを撮影して、手前のブラウン管に表示する単純なデモだった。係の小父さんが一生懸命原理を説明してくれたが、全然理解出来なかった。
学校から五反田まで今なら乗り物で行く距離だが、 当時は小学校から五反田まで隊伍を組んで歩いて行った。初めて見るテレビ放送(デモ)の感動よりも、歩き疲れたことと空腹感が強く記憶に残っている。間もなく本放送が開始されたが、受像機が一般の家庭に普及するまで数年を要した。家計に余裕の無い我が家にTVがやって来たのは7~8年後だった。