昭和31年に東京工業大学付属工業高等学校の機械科に入学した。第一志望の都立高校を失敗して、第二志望校に行くかどうか悩んでいたので、補欠だったが本校に入学出来てヤレヤレと言う気持ちだった。専攻は機械科だった。機械科を選んだ理由はハッキリしないが、京浜工業地帯で育ち周りに機械工場が多く馴染みがあったためと思う。
機械科のクラスは男ばかり三十数名の少人数だった。工業高校では専門科目や実習時間を確保するため、一般教科の授業に皺寄せがきていた。例えば英語は週に3時間だけであり、英語の苦手な小生は浅はかにも“ラッキー”と思っていた。機械科のカリキュラムのうち物理や数学に関係の深い熱力学や材料力学に興味を持ったが、より機械的な工作技術や工業材料などはやや敬遠気味だった。
今から考えると電気科の方が向いていたかもしれないが、当時は機械科以外に選択の余地はないと思っていた。二年生の秋、ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げた。 頭で理解していたことが現実となり衝撃を受け、興奮した。後年大学の卒業設計で参考にしたソ連の技術書が理論に偏らず実用的だったので感心し、これがスプートニク成功の理由かと一人で納得した。
昭和33年の暮れに東京タワーが完成した。未だ建設中だった頃、体育の時間にマラソンで「学校と東京タワー」間を往復させられたので印象が深い。NHKの「プロジェクトX」で東京タワーの建設が難工事だったことを知ったが、当時はそんな難しい工事とは思っていなかった。この東京タワーの展望台に登ったのは、大学を出てサラリーマンになってからである。
運動嫌いで団体行動を好まない若者だったので、全校行事の体育祭や文化祭は一寸気が重い面もあったが、クラス行事の遠足は楽しみだった。行き先はクラス毎にホームルームで決めたが、我がクラスは担任のI先生の巧みな誘導?で毎年山(高原)へ行った。流石に三年生の修学旅行は山行きでなく、関西・四国旅行になった。
◆三つ峠 (昭和31年)
記憶が朧だが、新宿を夜中に発って大月辺りで時間調整をして、朝早く登り始めた。当時は早寝・早起きの生活習慣だったので、短い仮眠だけでは頭がボーとしていて夢現の状態で同行者について登った。午前中は小雨が降り続いていたが、午後から天気が回復し、間近に富士山を見ることが出来た。


◆志賀高原 (昭和32年)
志賀高原ではどんな宿に泊まったのか、旅館の名前や規模について全く記憶が無い。現地で歩いたコース等も全然覚えていない。記憶にあるのは、寝る前にT君と碁を打っていたら、部屋を覗きに来たI先生に、「将棋はマアマアだが、囲碁はダメだな」と言われたことである。 小学生時代、一寸囓っただけだった上に数年間のブランクがあり、当時は超初心者だった。


◆鹿沢(昭和33年夏)
3年生のクラス旅行が関西旅行だったので、山好きの I 先生には物足りなかったようだ。先生は夏休み前のホームルームで「鹿沢に東工大の寮があるので行きませんか?」と提案された。
この提案は希望者が参加する形で実現した。恥ずかしながら、小生はお膳立てされた計画に従っていただけなので、下車駅や時間の記憶が無い。
倹約旅行なので、勿論夜行である。朝着いて、山小屋目指して登った。小生はマラソンとか山登りとか耐久力が必要なことは苦手だが、この時は共用の荷物を同行者に任せ、軽装なのでバテることなく楽々と登れた。

明るいうちに山小屋に着いた。
夕食の支度の前に、少し下った村の共同浴場のような温泉小屋に行き汗を流した。
暮れてくると山の冷気と共に周囲の峰々がシルエットになって迫って来た。

二日目は何組かに分かれた。我々は近くの山に登る予定だったが、スタートで道を間違えたらしく、暫く行くと道が無くなった。ウロウロしている中に霧が出てきたため途中で引き返した。
右の写真は山小屋近くに戻りホッとしたところである。この場所は前日登ってきた時に休憩したところで、その時、東急だか西武だかがここに観光施設を作るとかが話題になっていた。

左の写真は、二日目の朝、山小屋近くでの撮影と思われる。当時、半袖のワイシャツが登場していたかもしれないが、長袖のワイシャツしか持ってないので、夏の暑さは腕まくりで凌いでいた。
◆体育祭(昭和32年秋)
多分予算の関係だと思うが、或いは生徒数も少ないこともあったかもしれないが、全校行事の体育祭と文化祭は一年おきに交互に開催されていた。 我々の場合は在学中に体育祭が1回、文化祭が2回あった。この年の体育祭で、テーマ「罪と罰」の仮装行列を担当させられ閉口した覚えがある。

◆修学旅行
旅行直前に突然「親知らず」が痛み出した。 痛む場所が自分で特定出来なかった。歯医者さんは「どうしました?アア、親知らずですね。痛みは暫く続きますよ。」と言った。有効な手当は無さそうだと観念して覚悟を決めた。旅行の前半は痛みに堪えながら食事をした。栗林公園の散策や金比羅さんの階段を登る時も痛んで最悪のコンディションだった。

移動の汽車の中では、ずっと将棋を指していた。相手は志賀高原や鹿沢に行った時と同様担任のⅠ先生だった。
夜汽車ではかなり遅くまで将棋を指していて、普段早寝の小生は旅行第1日目から寝不足になった。
ただ、不思議なことに、将棋を指している時は「親知らず」の痛みを忘れることができた。東京を夜出て翌早朝大阪に到着した。寝不足で頭がボーとしていた。
山陽線への乗り継ぎ時間を利用して大阪城に寄った。旅の第一日目は雨で、持参したビニールのレインコートが役に立った。下の写真は左側と天守の一部がトリミングされて左右アンバランスだが大阪城は気に入った。大阪駅に戻り、山陽線を待つ間に聞いた構内アナウンス「何番乗り場—」が、関東の「何番線—-」に慣れた小生には新鮮と言うよりも可笑しく聞こえた。


都会育ちの小生には大阪から宇野に移動する車中から見た沿線の田圃風景、特に白鷺の姿が印象に残っている。
宇野から宇高連絡船で四国に渡った。宇高連絡線では度々事故があったので、連絡船は旅行中唯一の心掛かりだった。

日程の制約があり、四国では屋島、栗林公園、琴平神社等、高松周辺を瞥見した。連絡船、息が上がった琴平神社の石段登り、琴平電気鉄道、屋島の展望台での「かわらけ投げ」などが懐かしい。
高松から宇野に戻る頃、いつの間にか「親知らず」の痛みは消えていた。宇野から関西へ向かう夜汽車の中で、無性に眠くなり座席を床に降ろして寝てしまった。
まるでベッドで寝ているように寝心地がよく、ぐっすり寝てしまったのだが、途中の駅から乗ってきたお客さんにタタキ起こされた。起こされた瞬間は、何事が起きたのか暫く分からなかった。
京都・奈良は中学の修学旅行と重なって印象が薄い 。但し、このとき初めて訪れた苔寺の佇まいが何故か大いに気に入った。 宿と食事の内容は中学の修学旅行の時に泊まった宿より良かったと思う。高度成長の前だが、昭和30年代に入り暮らしは少しずつ向上していたようだ。
◆アルトハイデルベルク
還暦を過ぎた今、振り返ってみると高校時代が人生で一番感度の良い時代だったような気がする。その感度の良い3年間を担任として指導して下さったI先生が 2006年8月に逝かれた。ご無沙汰しっぱなしの不肖の弟子だが、大事な支えを失ったような気がする。自分自身が老人の仲間に加わっているのに、約20歳年上の先生の加齢にはなかなか気が回らなかった。
I先生の担当は材料力学や機械設計で、「設計は応用と創造の能力が肝心」と言うのが口癖だった。生徒の評判は「コワイ先生だが、話は面白い」である。毎回I先生の熱意が伝わってくる授業だった。それでいて真面目な話が何時の間にか脱線して、気が付くと「福田恒存評」だったり、「芥川賞=太陽の季節」だったり、あるいは高校生には難しい「下ネタ」だったりした。
卒業が近づいた2月、授業でスラスト軸受けの設計公式が出てきた。I先生が「教科書は間違い」と言いだした。小生は「算出の前提に関する先生の解釈が違うのではないか」と異議を申し出た。I先生は「ウーン、成る程」と言って、黒板で公式を導く計算を開始した。計算は延々と続いて授業時間の終了間際に漸く教科書は間違いないと判明した。生徒全員I先生の熱意に参った。
I先生は卒業文集で、マイアーフェルスターの戯曲「アルト ハイデルベルク」の中の詩を二編紹介してくれた。残念ながら卒業文集は疾うの昔に失ってしまった。日本語の訳詩は七五調なので覚え易かった。この詩を卒業文集に載せた I 先生の意図は、当時何となく感じ取れたと思っていた。小生は戯曲は殆ど読まないので、この切っ掛けが無ければこの戯曲を読むことは無かったと思う。
30代の中頃、2年弱ドイツに滞在して一度だけハイデルベルクを訪れた。時間が無くて半日だけの滞在だったが、お城の上からネカーの流れを見ていて I 先生の紹介してくれた詩を思い出していた。当時は完璧に暗誦出来たのだが、還暦を過ぎて記憶が怪しくなったので確認のため原典を探したが既に絶版とのことだった。絶版になった文庫版の戯曲は、サイトの古書市場で入手した。

戯曲「アルト ハイデルベルク」
マイアーフェルスター 作
番匠谷 英一 訳
(画像をクリックすると詩のページにジャンプ)
◆大学受験
2年から3年に進級する春休みに進学に進路変更した。 「何をやりたいのか?」はっきりしないまま就職して企業人になることを躊躇して、勉強したいと言うよりも、もう少しフリーでいたいと言う気持ちが強くなった。 とは言え経済的な余裕が無いので国立大学オンリー、受験勉強も “旺文社の大学受験ラジオ講座” だけに絞った。
ラジオ講座の放送は夜の11時台だったが、若い頃の小生は完全に朝型人間で夜の11時台は既に睡魔と戦う時間帯だった。従って、一生懸命に教えて下さった講師の先生方には申し訳ないが、朦朧としていて講義内容を十分把握出来なかった。ラジオ講座を夢うつつの状態で聞いていた不肖の弟子ではあるが、先生方には感謝している。
特に、最後の放送で“寮歌”を歌って激励してくれた数学の田島さんとサマセット・モームの短編を教材にされた英語の朱牟田夏雄さんが印象に残っている。俄受験生の唯一の気懸かりは、工業高校では基礎科目の履修時間が少ないことだった。入学当時は “英語の時間が少なくてラッキー”と思っていた小生だが、突然の受験戦争参入で君子豹変、“アンラッキー”と思うようになった。
基礎学力が不足なら当該の基礎科目を勉強すればよいのだが、横着者の小生は別の作戦を立てた。英語や国語で不足する分は、数学や物理で稼げば何とかなると考え、第一志望校、第二志望校共に数学や理科の配点を重くしている大学を選択した。結果は国立一期校は×、二期校は○だった。当時は1勝1敗の1敗が無性に残念で悔しかった。
一期校の試験は最初の数学で躓き動揺して完敗だったが、得意と思っていた数学で動揺したことが無念だった。二期校の方は、幾つかの教科で試験間際に復習した事項が出題され 幸運に恵まれたと思う。但し、進学が向学心よりも社会からの逃避(就職の先延ばし)だったこともあって、新学期が始まると忽ち新たな問題に直面して一年間学校から離れてしまった。
◆追記「クラス会」
90年代後半に「クラス会」が復活して、2006年8月に I 先生が亡くなるまで何回か開催されたが、小生はその頃体調が芳しくなく一度も出席しなかった。2006年8月の訃報は想定外で、先生にお目にかかる機会を永遠に失ってしまった。当時は時々激しい目眩に襲われるので、途中の乗換駅で休み休み通夜の会場に行った。そこで半世紀ぶりにクラスメート何人かと再会した。
その後、先生を偲んで文集を作ることになった。当初、先生の長女のKさんと38年卒の某氏が中心で34年卒のM君が応援する形で進められていたようだが、事情があって某氏に代わってM君が推進役になった。M君に頼まれて小生が卒業生の原稿の入力や文集の編集を担当した。この文集にKさんが色々な資料を追加して記念文集が完成、自費出版された。
この出版を機に34年組の関係者が集まり、Kさんをお招きして出版記念の会を催した。宴席が苦手でクラス会を敬遠していた小生も出席した。先生が亡くなって中断していたクラス会は次の年からM君が幹事役で再開した。M君の体調悪化で幹事役はS君に引き継がれたが、クラス会は毎年開催されている。小生は体調を気遣いながらも出版記念会以降のクラス会には顔を出している。
NHK勤務だったM君が幹事の時は会場はいつもNHK施設だったが、S君に代わってからは、銀座と東京駅前を経て、昨年(2017年)からは母校の「弟燕祭(文化祭)」に合わせて田町で開催されるようになった。昨年は田町駅到着がギリギリで「弟燕祭」はスルーしたが、今年は「弟燕祭」を覗いてみた。母校の敷地に入るのは約60年ぶりである。昔を偲びながら何枚かスマホで写真を撮った。
●ミニアルバム「弟燕祭」(クリックで拡大・移動)