PCとの出会い

1988年に職場が変わりコンピュータと縁が切れた。その後もマイクロコンピュータは進化して、それを組み込んだPCは社会的な存在になった。Windows95が世間の話題になりだした1994年に小生もPC購入を計画した。しかし、暫くコンピュータにご無沙汰していたので、PC市場は全く未知の世界になっていた。丁度、パソコン専門誌が続々と登場した頃だった。

初めて買ったPC

専門誌を読み漁った結果、N社の国民機やマッキントッシュはオープン性が乏しく小生の好みではなかったので、DOS/V機を選択した。当時最速のコンパック製PCを注文したのだが、秋葉原のお店に代金を振り込んだのに待てど暮らせど現品が送られて来ないので、腹を立ててキャンセルした。

代金を返金して貰った後のことだが、そのお店が倒産に追い込まれたことを知った。コンパック機は諦めて、富士通が台湾のエーサーに委託生産した DOS/V 機を購入した。搭載された CPU は Pentium 90MHz で、OSは Windows 95 のリリース前なので、MS-DOS と Windows3.1 だった。

周辺機器は贅沢をして、ディスプレイはNANAOの17″CRT、 プリンターはNECのレーザープリンター(A3対応)を購入した。趣味の一品であり、全くの私用設備なのだが、日本のサラリーマンはサービス精神旺盛なので自宅で仕事する時のために、プリンターはA3対応にした。

住まいが2DKの借り上げ社宅だったので、これらの機器をコンパクトに収納するため、週末に「特急あずさ」に乗って秋葉原まで出掛け、ピッタリ合う縦型のパソコンラックを探した。数年後に社宅を引き払う時、畳みに深くラックの跡が残っていたのを思い出す。

◆パソコン初心者の難関
第一の難関は1995年11月にリリースされたWindows95のインストールだった。マイクロソフトの標準版CD-ROMにはFMVー590で使っているグラフィックチップのドライバーが収納されてなかったので、画面の解像度を上げて再起動すると画面が真っ黒になった。 コンピュータの素人ではないがPC初心者には厳しい洗礼だった。

気を取り直してセーフティモードで追いかけると、グラフィックカードが問題らしいと推測出来た。富士通のサポートへの電話は全く繋がらず、新ドライバーを入手するのに二ヶ月掛かった。試行錯誤の結果、 旧OSで解像度を上げておいて、新OSを上書きインストールすると何とか動くことが分かり、ドライバーを入手するまでの2ヶ月間はこの方法で凌いだ。

第二の難関はCドライブの引っ越しだった。Windows95は使い易かったので、アプリケーションを何本もインストールしたら、850MBのHDDはたちまち満杯になった。週末に「特急あずさ」で秋葉原に出て 1.3GB の HDD を入手して増設に挑戦した。新しい 1.3GB の方を起動ドライブにしたかったので、実現するのに苦労した。

当時は便利なユーティリティソフトが無く、Cドライブの引っ越しは初心者にはハードルが高かった。HDDの初期化やアクティブ化等、細々した知識を獲得しながら試行錯誤を重ねて漸くCドライブの引っ越しに成功した。この間、PCの分解・組み立てとDOSのコマンド操作を繰り返したので、自然にDOS/V機の仕組みを理解することが出来た。

第三の難関はCPUのアップグレードであった。インテルが動作速度を上げた新機種を次々とリリースしたので、購入時の最速機は半年も経たずに旧型機になった。当時、CPUとソケットの間に「変換ユニット」を挿入して新CPUを使えるようにする「CPUアップグレード用ゲタ」が自作市場を賑わせたが、我が FMV-590T2用の「ゲタ」は何故かなかなか市場に出てこなかった。

結局、FMVー590T2のマザーボードを交換することにして、AT規格のマザーを購入した。しかし、苦労して解体し、マザーを交換して再度組み立てた結果、マザーのPS/2コネクターの位置とケース側の孔位置が僅かに合わないことが分かり、苦労してバラしたPCをバラした時以上に苦労して元に戻した。 手元に残ったマザーボードと新品のCPU(200MHzのPentium)を呆然と眺めていた。

◆初めての自作
FMVー590T2のマザーボード交換に失敗して呆然としながら、二度とメーカ製PCは買うまいと思った。とは言え、CPUのアップグレードは諦めきれなかったので、買ったばかりのパーツを生かす方法を考えた。マザーボードだけでなく本体ケースも交換すれば組み立て上の問題は解決するので、本体ケースも購入することにした。こうしてPC自作の泥沼 ?に足を踏み込むことになった。