入社から退職まで

面接試験を受けた三菱赤煉瓦街

1964年(昭和39年)に大学を追い出されて、富士電機(株) に入社した。前年の夏(多分6月か7月)の面接試験は鍛冶橋通りの古い赤煉瓦造のビルで受けた。有楽町駅から面接会場までは旧都庁の前を通って行った記憶があるが、細かいことは思い出せない。リクルートスーツなどは思いもよらぬ時代、貧乏学生の小生はワイシャツの腕まくりスタイルで面接に臨んだ。受付で来意を告げると会議室に通されて暫く待たされた。

その日面接試験を受けた学生は5~6人で、小生の他は皆さん東工大生だった。待っている間に調査票のようなものが配られ記入させられた。調査票の記入欄の中に見慣れぬ「同胞」と言う欄があった。初めて見たので困惑して係員に尋ねると「同胞は兄弟姉妹のことで《はらから》と読む」と教えてくれた。面接の順番は受付への到着順だったと思う。試験官は2~3人いて、卒業研究の研究内容と教養課程で留年した経緯について聞かれた。何を隠そう小生は大学5年生だったのだ。

小生は東京生まれの東京育ちだが、丸の内の三菱赤煉瓦街地区は馴染みの無いエリアで「一等地だが古いビル」と言うのが、22歳の若者の素朴な印象だった。最近、関連の画像(下の写真)が見つかったのでこの稿を書き直すため「渋沢社史データベース」の「富士電機社史」を覗いたら、1963年(昭和38年)の欄に「2月 本社事務所移転.丸の内1丁目1番地 朝日生命館へ」とあった。面接の時には本社事務所は既に朝日生命ビルに移転していたようである。とは言え、この年小生は面接のため赤煉瓦街を訪れているので、本社移転後も一部の会議室などを使用していたと思われる。

◆一丁倫敦の建築群
面接で訪れた街区が三菱赤煉瓦街で「一丁倫敦」と呼ばれていたことは後年に知った。貧乏学生の小生、当然カメラなど持っていなかったので、残念ながら赤煉瓦街の写真は撮っていない。後年、ホームページを作成する気になって、赤煉瓦街の写真をネットで探したが見つからなかった。上の写真は、10年くらい前に偶然ネットで見つけたもので、キャプションの「昭和38年」に何かの縁を感じて引き続き載せている。建物は右から、画像の半分以上を占める三菱1号館、その左手が4号館で、左端にチラッと5号館が写っている。当時富士電機・本社事務所が入っていたのは4号館か5号館かハッキリしないが、我が頭の片隅には《面接は5号館》と言う朧気な記憶が残っている。

最近はウェブブラウザの画像検索機能が向上したのか、今年(2024年)、大正時代の三菱煉瓦街の写真(絵はがき?)が見つかったので下に載せておく。中央の道路が「鍛冶橋通り」で、右側の建物は手前から、三菱1号館、4号館、5号館と並び、一番奥のお堀に近いのがタマネギ型の尖塔を持つのが2号館である。2号館は1930年(昭和5年)に取り壊され、隣接した敷地と合わせて「明治生命館」が建設されたが、終戦後の1945年~1956年まで米極東空軍司令部として接収された。左側は手前から3号館、12号館、13号館、商工会議所である。

大正時代の三菱赤煉瓦街「一丁倫敦」(クリックで拡大)
主婦の友社(この近くの医院で健康診断を受けた)

◆面接試験時の健康診断
既に触れたが、その日に面接試験を受けたのは小生と東工大生4~5人だった。本社事務所が既に朝日生命ビルに移転していたため、赤煉瓦館には健康診断の施設は無かったようて、面接の後、東工大生と一緒に御茶ノ水の主婦の友社の近くにある医院に行くよう指示された。

学生時代は神田の古本屋街によく行ったので、御茶ノ水駅から駿河台下に続く明大通りの途中に主婦の友社があることは知っていたが、この日は東工大生のグループについて行ったためか、医院の名前も場所も覚えていない。

御茶ノ水では時間調整を兼ねて喫茶店に入り軽い昼食をとった。金欠病の小生はサンドイッチだけ注文してサービスの「お冷や」で流し込んだ。未だ若かったので健康診断は何も心配していなかったが、血圧が140で高血圧と言われてビックリした。血圧が高かったのは測定の時に若い女医さんに手を握られたせいかと思うが、それまで血圧を気にしたことがなかったので「高血圧の診断」は意外だった。この記憶があったので入社後の血圧検査では気にしていたが、大抵120以内に治まっていた。

 ◆面接試験会場周辺と本社事務所
手元にあった1987年(昭和62年)版の東京都区分地図を使って、面接会場や本社事務所の位置を確認する。面接会場となった三菱赤煉瓦街は馬場先通りの北と南に23号館まで建てられていたが、下の地図には馬場先通りに面した建物だけを上書きしている。既述のように、本社事務所は1963年2月に朝日生命館に移転しているが、面接試験は同年夏に三菱赤煉瓦街で行われた。多分、赤煉瓦館の会議室や応接室は取り壊し直前まで使用されていたと思われる。当然であるが、1964年(昭和39年)4月の入社式は朝日生命ビルで行われた。

面接会場と入社式会場(クリックで拡大)

その後、本社事務所は1969年(昭和44年)に有楽町駅前の「新有楽町ビル」に移転した。本社の有楽町時代は30年間続いたが、小生が退職する一年前、1999年に品川区の「ゲートシティ大崎」に移転した。小生は退職前の4年間、旧通産省の外郭団体「財団法人国際ロボット・エフ・エー技術センター(現在の一般財団法人製造科学技術センター)」に出向していたので、大崎へ移転した本社事務所へ行く機会が少なく、あまり馴染みが無かった。どの部署がどの階に入っているのか分からず、定期健康診断や退職時の手続きで訪れた時はなんだか他所の会社に行ったような気分だった。

◆入社式と配属前の新入社員教育
1963年の夏、三菱赤煉瓦街の5号館で面接試験を受けたが、1964年4月の入社式は本社(朝日生命ビル)の大会議室で行われた。
朝日生命ビルは国鉄本社ビルの西側にヒッソリ建つ古いビルだった。ここで入社式と集合教育が行われた。配属前の教育期間は2ヶ月で、最初の1週間と最後の1週間が本社での集合教育、残りは工場(川崎、三重)での現場実習であった。この間は全員寮に入って団体生活を送った。上の地図を見ると、丸の内北口から国鉄本社ビルを回り込んで通ったのを懐かしく思い出す。

その頃、会社は投資先が倒産して厳しい状況にあった。それに関係した対策会議(債権者会議?)の会場が必要になったらしく、突然、集合教育の会場が社外に変更されたことがあった。社内の騒然とした雰囲気から世間知らずの我々新入社員にも会社の苦境が感じられた。とは言え、当時は高度成長の坂を登り始めた勢いで日本中が活力に満ちており、会社の倒産等は全く気に掛けなかった。この年の新入社員は110名前後だった。実際はもっと多く採用したのだが、上述の倒産問題で経営状況が悪化したため、かなりの人員を入社前に富士通に引き受けて貰ったようだ。

実は小生も前年の秋に富士通を奨められたのだが、機械屋としての仕事のイメージが湧かず断ってしまった。入社式の幹部挨拶の中でK勤労部長が「この中に富士通への異動の奨めを断った者がいるが、大変な認識不足だ。」と語ったのを今も覚えている。確かに企業の規模や成長力は雲泥の差があり給与水準も違ったと思われるが、業務を通じて何度か接触した経験から感じた両社の社風の差を考えると、自分の選択は間違っていなかった思っている。ただ、36年の会社生活でコンピュータ関連の仕事が一番面白かったことも事実で「もしかして – – – – 」と思うことはある。

川崎と三重の現場実習は、AとBの二つのグループに分かれた。Aは4月が川崎工場で5月が三重工場、Bはその逆で4月が三重工場で5月が川崎工場である。小生はB組だった。両グループは連休前の4月下旬に松本で合流して松本工場を見学した後、 AとBが入れ替わって三重と川崎に向かった。東海道新幹線が開業する半年前だったので、東京ー名古屋間は在来線を利用、5時間くらい掛かってかなり疲れた。名古屋ー四日市間は貸し切りバスだった。東京工場と吹上工場及び千葉工場は、本社での集合教育の期間中に工場見学が設定されていた。そのうち千葉工場だけは現地集合でなく、貸し切りバスで移動した。

工場実習と工場見学(クリックで拡大)

上のマップには入社時の1964年(昭和39年)には無かった大田原工場、山梨工場、筑波工場、及び1968年(昭和43年)の川崎電機との合併で編入された鈴鹿工場と神戸工場も表示した。なお、横須賀にあった中央研究所は、社内の研究開発部門の統合や分散で別会社になったりの変遷を経て、現在は幾つかの製造拠点に分散配置されている。話は変わるが、三重工場での実習中の4月のある日、貸し切りバスで伊勢神宮に行った記憶がある。残念ながら記念写真は撮らなかったようで、貸し切りバスで行ったことしか思い出せない。

我々が三重工場で実習中に電機労連のストがあった。富士労組はそれまでストをやったことがなかったが、初めてストに突入した。2時間の時限ストとは言え、慣れていないので会社側も組合側も混乱したようだ。我々新入社員は非組合員なのでストには参加せず、工場の会議室で庶務係長の講話を聴いた。ところが庶務係長は何故か話の途中でシドロモドロ状態になってしまった。講話は途中で打ち切られたと思うのだが、どんな決着だったかは思い出せない。

◆配属決定
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ヶ月の教育期間が終わって、川崎地区にあった本社の生産技術部に配属された。当初の希望とは違ったが、常に新しい研究テーマに取り組み、自分流に仕事が出来たのは幸いだった。因みに、希望したタービンの設計には優等生のK君が配属された。後年、ドイツに出張していた時、イースターの休暇を利用してパリ見物に行った。ドイツ語ガイド付きのナイトツアーに参加したら、偶然K君と遭遇した。この時の経緯は「パリ見物2(ナイトツアー)」の項に書いた。

新入社員研修終了時の記念写真(朝日生命ビル屋上にて、矢印が小生)

◆生産技術部
初めて担当したテーマは「超音波振動切削の研究」だった。先輩の I 氏が担当していたテーマだが、I 氏の指導の下で小生が担当することになった。超音波発信器の振幅を拡大するホーンの設計や切削工具のホルダーを設計し、
試作工場の片隅を借りて、超音波振動切削の実験装置を組み上げた。研究はアルミロータの外旋に振動切削を適用するのが狙いだったが、ロータ以外の様々な被削材の切削実験も行った。

新入社員は最初の1年間(あるいは2年間)見習い社員と言う資格だった。一年経過した時、国府津の中央研修所で「見習い研修」があった。各自の担当業務について成果を発表したり、事例研究としてチューターが提示した課題についてグループ討論したりさせられた。肝心の発表や討論については何も覚えていないが、研修所の食事は寮のそれよりも良かったことだけはハッキリ覚えている。

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見習い研修終了時点での記念写真(中央研修所玄関前にて、矢印が小生)

見習い期間を含めて、1964年~1975年まで、製造技術を担当した。切削技術、半導体製造技術、品質管理、溶接技術、自動化技術等色々手掛けた。切削技術では、上述の振動切削や難削材の切削等がテーマだったが、残念ながら経営に資する成果は上げられなかった。初めの数年間は研修を兼ねて長期間工場に出張することが多く、その中の一つとして半導体のウェハー加工では加工精度を大幅にアップすることが出来た。

各工場への長期出張では、半導体加工と並んで、小型音響モータの品質向上、漏電遮断器の品質向上でかなり貢献出来たと思う。溶接技術では、当時の新技術であるプラズマ溶接、レーザ溶接、電子ビーム溶接等を研究し実際の製品へ適用した。新しい溶接技術の導入と並んで3K作業である溶接を自動化する課題に取り組んだ。安い制御装置の必要性を痛感していた時、技術雑誌で誕生間もないマイクロコンピュータの存在を知った。

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◆転機
アマチュアの技術雑誌で誕生間もないマイクロコンピュータの存在を知り、これを使えばコンピュータ制御や製造自動化システムの低価格化を実現出来ると確信した。大きな可能性を秘めたマイクロコンピュータに巡り会ったのは幸運だったと思う。専門違いの機械屋だったが、早速コンピュータ制御への挑戦を始めた。ロジックICを使った論理回路の設計やアッセンブラー言語の独習に夢中になった。

ASR-33 Teletype

頭の中である程度理解しても実際に使ってみないと分からないので、研究費を工面してインテルのCPU評価用のボードを購入した。電源や筐体はどうしたか記憶が無いが、入出力インターフェース用のボードは自己流ながらIC回路を設計し(安定用のコンデンサーは見様見真似)、パーツをユニバーサルボードに組み込んでラッピング配線した。予算が無いので、当初はラッピング作業も自分でやるつもりで、試作工場の工具を借りてやってみたが、不器用なので直ぐに諦めて試作工場の工員さんの手を借りた。

手作りの評価システムのヒューマンインターフェースはASR-33と言うテレタイプライターだった。ニーモニックコードでソースを記述し機械語に変換するのも全て手動だったので、テレタイプの印字情報が頼りだった。メモリーカードはおろかフロッピーディスクも無い時代、作成したプログラムは紙テープに保存したが、保存したプログラムを修正するには、RAM上のデータを修正し新たに紙テープに打ち出す必要があり、これがやたらに時間の掛かる面倒な作業だった。

入社前に富士電機から富士通への転社の奨めを断った自分だが、皮肉にも30代半ばにしてコンピュータの世界に足を踏み入れることになった。入社当時は夢にも思わなかった事態である。とは言え、業務なのに趣味のような気分で楽しみながらマイクロコンピュータの勉強をすることが出来た。

◆新グループ結成
数ヶ月後、部内にマイクロコンピュータによる製造自動化を推進する小グループが誕生した。小生もこのグループに所属し、生産システムや自動化システムの開発に専念することになった。機械屋からシステム屋に転職したのである。勤務地も川崎から関連部署のある日野に移った。新しい部署での活動が始まって半年後、コンピュータ関連の技術調査のため技術提携先の西独シーメンス社へ出張することになった。

ドイツ語学校時代
ドイツ語学校時代

1976年~77年にかけて、シーメンス社の生産技術部門に籍を置き、製造部門へのコンピュータ利用(生産計画、生産管理、設計情報、 製造自動化、試験・検査自動化等)について調査した。調査対象が広範囲なので、訪問先の工場では大勢の技術者と知り合い、お世話になった。この一年半の滞欧生活は公私共に貴重な体験だった。

ドイツから帰国後、1978年1月から1989年3月まで、引き続き生産技術部でコンピュータ関連の仕事を担当した。右肩上がりの成長が続く中、各工場の自動化・システム化投資が続き 、我がグループは生産制御システムの開発に追われていた。しかし、世の中は既にバブル崩壊に向かって走っていたようだ。

1989年4月、生産技術研究所に移り、電子機器の製造技術を担当した。担当課題の中にオゾン層保護のための脱フロン対策があった。1960年代に電子機器の洗浄用にフロンを工場に紹介した小生が、四半世紀後にその幕引きを担当することになった。洗浄用フロンを売り込みに来た商社の担当者は「無色・無臭・無害」と言うので、当方「化学薬品なら何かあるでしょう?」と言った覚えがある。20年以上経って「オゾン層破壊」の原因物質と判明、矢張りフロンにも「何か」があったのだ。脱フロン対策が動き始めた頃、突然の異動命令を受けた。

◆松本工場
1991
年1月、信州の工場へ転勤。ハードディスクに組み込まれる磁気記録媒体の開発・製造部門を担当した。 ハードディスクはIT産業を支えるPCの主要パーツであり、激しい市場競争の中、高密度化、低価格化、生産能力の拡大等の難題に取り組んだ。
主要顧客が米国メーカだったので、一番の難敵は1ドル80円まで進んだ円高だった。地道なコストダウンでは円高を吸収出来ないので生産拠点を海外に移すことになった。

◆出向
1996
年5月、磁気媒体の海外生産拠点計画に目処がついた
ところで、通産省の外郭団体に出向した。 新しい職場はロボット・FA関連の技術開発や標準化を推進する機関であった。小生はFAのオープン化事業と共にISOのTC184(FA関連技術委員会)の日本側事務局を担当した。色々な委員会を通じて、国内・国外の学者、技術者と知り合い貴重な経験になった。

2000年4月末日をもって定年退職した。富士電機の経営状況が好転せず、リストラ策の一環で一年ほど早めの退職だった。40代後半から難聴が進み、業務に支障を感じていたので再就職は考えなかった。サラリーマン生活から隠退生活への転換は容易でないが、小生の場合は定年前の出向が退職への ソフトランディングとなって困難を緩和してくれたように思う。