ミュンヘン

ドイツ到着の次の日、エルランゲンからドイツ語学校のあるプリーンへ向かう途中、 ミュンヘン駅で列車を乗り換えた。乗り継ぎの合間に、構内で簡単な昼食を取り、バイエルン版の時刻表を購入した。最初のミュンヘンは玄関先を一寸覗いただけだったが、駅の構内の人混みと喧噪にエルランゲンとは一寸違った大都会の雰囲気を感じて緊張感が少し和らいだ。

ドイツ語学校が始まってからは週末にアチコチ旅行したので、次にミュンヘンを訪れたのは一ヶ月後の1976年6月26日(土)だった。この日はミュンヘン在住のFさんを訪ねた。既に半年以上ミュンヘンに滞在し年末に帰国する予定のFさんから、ミュンヘンの市電の料金体系や乗り方(時刻スタンプ、無札時の罰金等)、市内の観光名所、日本レストラン「ミフネ」等、 ドイツ生活のイロハを教えて貰った。

ミュンヘン市街図(クリックで拡大)

レストラン「ミフネ」
ミュンヘンでFさんに会うまでの4週間、毎日ドイツ飯が続いていたが、段々耐え難く感じるようになった。しかし人口7000人の田舎町プリーンには中華料理店さえ無く、 時々イタリア料理店に出かけて「スパゲッティ」や「ピザ」を食べて耐えていた。そんな状況の下で、Fさんに「ミフネ」に連れて行かれた。忽ち「ミフネ」中毒に掛かった。プリーン-ミュンヘン間は列車で1時間、往復2時間の道のりを厭わず、週に1度はミュンヘンに出掛けるようになった。

小生のミュンヘン詣では直ぐに日本人仲間に知られ、一度だけ仲間を同道したことがある。8月にパッサウの学校に移ってからは遠かったので、流石にご無沙汰した。しかし、プリーン→パッサウ、パッサウ→エルランゲンの移動の際は、わざわざミュンヘンに宿泊して「ミフネ」詣でをした。大抵は市電を使うのだが、時間の関係でタクシーを使うことがあり、ミフネのアドレス「IsmaningerStrasse 108」は今でも頭に残っている。

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インターシティホテルミュンヘン
インターシティホテルミュンヘン

◆ステーションホテル
ミュンヘン中央駅に隣接したホテルで名前もそのものズバリ「ステーションホテル」である。プリーンの2ヶ月コースが終了してパッサウに移動する時、初めてここに泊まった。1976年7月28日のことである。

駅前の案内所に向かう途中で駅に隣接してホテルがあるのに気がついた。予約してなかったが運良く空き室があったのでチェックインした。部屋に入って何気なく付けたテレビの画面に田中角栄氏の顔がアップされてビックリした。ドイツ語のアナウンスはよく聞き取れなかったが、ロッキード事件で逮捕されたことをこの時初めて知った。

このホテルは駅に隣接しているが、窓を開けなければ居室は意外と静かだった。駅前に市電の路線が集まっていたので、街の何処へ行くにも便利だった。宿泊料も高くなかったので気に入り、ミュンヘンでは大抵ステーションホテルを利用した。見本市やビール祭りの時は満室で予約出来ないこともあった。

当時(40年前)のホテルの朝食はヴァイキング方式ではなく、ボーイが席までオーダーを取りに来た。毎朝一番乗りする東洋人として、ボーイ長に直ぐに顔を覚えられた。 また、フロント脇にある小さなバーは空いていたので、寝る前によく顔を出した。下戸の小生はいつもビールの小瓶1本だけだったが、年配のバーテンは「おつまみ」を何回も追加してくれた。

90年代中頃、ミュンヘンにあるシーメンスの研究所を再訪した際、久しぶりにステーションホテルを予約しようとしたのだが、どのガイドブックにも見当たらず 、やむなくヒルトンを予約した。今ならネットで容易に探し出せるが、当時は廃業したのかと思った。気になったので、わざわざミュンヘン駅まで行ってみると、名前がインターシティホテルに変わっていた。銀行やホテルはM&Aが盛んのようだ。

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◆オクトーバーフェスト
アンベルクの工場でドイツ語の資料に悪戦苦闘していた9月下旬、週末を利用してオクトーバーフェストに出掛けた。オクトーバーフェスト 期間中はミュンヘン行き乗車券は割引料金だった。はじめは空いていたのだが、列車は途中から超満員になった。ステーションホテルが取れずその日遅くにアンベルクに帰った気がする。

中央駅から会場のあるテレジエンヴィーゼまでお祭り気分の人で溢れていた。テレジエンヴィーゼには、大きなテント掛けのビアーホールが幾つもあった。 一人旅だったので、下戸の小生としてはビアーホールは敬遠して、会場を歩き回った。印象が深かったのは、ハンマーを使った”力比べ” とホレーレ(鱒)を焼くお店の行列である。

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◆ニンフェンブルク城
バイエルン国王が夏の離宮として使っていた城でミュンヘンの郊外にある。他の観光スポットとは市電の系統が異なるのと遠いので二度しか行っていない。最初は一人で、二度目は同じアパートに滞在していたK君とYさんと行った。今回、フィルムを整理して分かったのだが、ニンフェンブルク城の写真が1枚も無かった。不思議である。

写真を撮らなかった可能性も無いとは言えないが、首が痛くなるような姿勢で天井画を撮った記憶がある。出張でエルランゲンになかなか戻らないので、K君かYさんに現像を託してそのままになってしまった可能性が高い。自分でDPEに出して取りに行かなかったかもしれないが、何しろ40年も前のことなので分からない。写真が無いので記憶があやふやだが、 宮殿の天井画に感嘆したのと広大な敷地で歩き疲れたことは憶えている。

1976年のミュンヘン詣で
1976年は住所不定で、バイエルン州の中を1~2ヶ月単位で、プリーン、パッサウ、アンベルク、ミュンヘン、エルランゲンと移動した。大抵はホテル住まいだった。それぞれの街にはその街の良さがあったが、やはり州都ミュンヘンには他の街に無い風格が感じられ た。暫くご無沙汰していると無性に行きたくなる街だった。1976年にミュンヘンを訪れた状況は下図の通り。

1976年のミュンヘン詣で

1977年はバイエルン以外の工場にも出掛けるようになり、フランクフルト、デュッセルドルフ、ハンブルク、ベルリン等、日本料理店のある大都市に行く機会が増えたので、舌に関してはミュンヘンの地位は下がった。しかし、馴染みのホテルやお店が多いので、リフレッシュならミュンヘンだった。1977年はリフレッシュだけでなくミュンヘン出張も屡々あった。

バイエルン中心部の鉄道路線
バイエルン中心部の鉄道路線

上図は西ドイツ国鉄の路線図からバイエルン主要部を抜粋したものだが、滞独中最も利用したのはエルランゲンーミュンヘン間の路線である。プリーン-ミュンヘン間が約1時間、エルランゲン-ミュンヘン間は約3時間だった。ドイツ企業の終業時間が早いので、仕事で日帰りの場合は出来るだけ早朝に出立して午前中の早い時間に到着する必要があり、ミュンヘン出張の時は寝坊しないように緊張した。

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