滞独中二度パリに行った。最初のパリ行きはカールスルーエの工場に出張していた時、復活祭の休みに一人で出掛けた。復活祭(Easter)は、春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日である。従って、年によって3月21日から4月24日の間で変化するが、1977年は4月10日だった。旅券には1977年4月8日(土)にオルリー空港の入国スタンプがあるが、出国の記録が無い。多分4月11日(月)にドイツへ戻ったと思われる。
二度目は日本へ帰る途中に立ち寄った。小生のパリ行きを知って、エルランゲンのアパートに住む日本人3名が同行した。二度目のパリ行きでは前回の訪問で見逃した観光スポットを回る予定だったが、突然同行者が出来て予定が狂ってしまった。同行した3名はパリが初めてだったので、お決まりの観光スポットに付き合わされ新しい観光スポットはパスしてしまった。その代わり団体で行ったお陰か、パリ駐在員のO氏がホワイトホース(キャバレー)に案内してくれた。


初めてパリの街を歩いた時、中学生の頃に読んだ A・デュマの「ダルタニアン物語」を思い出した。物語に出てくるパレロワイヤルとかリュクサンブール宮殿とかの実物を自分の目で見るとは思っていなかったので、実際に目にして嬉しかった。パリの地名や建物は初めてとは思えず、懐かしい気がした。
中学生の時に読んだ 「ダルタニアン物語」の翻訳者は6名で辰野隆博士が監修、昭和27年に講談社から刊行された。 第2巻「妖婦ミレディの秘密」は中学生には少々刺激が強過ぎた。第2巻はボリュームが多いので一気に読み切れず何日か掛かったが、ドキドキしながら夢中で読んだ記憶がある。
文庫版ダルタニアン物語
帰国後、再読するために書店で探したが27年版は無く、右の文庫(全11巻)があった。訳者は上記27年版の翻訳者の一人である鈴木力衛氏である。

◆ホテル&観光の足
エルランゲンの旅行社の担当に「アテネの宿は最悪だった。パリでは良いホテルを取って。」と頼んだら、オペラ座の隣のホテル・ル・グランを取ってくれた。 古い由緒あるホテルのようだが、水回りの設備に難点があった。1階には有名なカフェがあり、直ぐ目の前に地下鉄「オペラ座前」 駅があって、コンコルド広場、パレロワイヤル、ルーブル美術館等は徒歩圏内だった。(1989年にオペラ・バスティーユが完成、公演はそちらが主になった。)
市内見物には最適のロケーションだったので、帰国直前の二度目の時もこのホテルに泊まった。市内見物は専ら地下鉄と徒歩だった。 最初に地下鉄の回数券を買う時は少々手こずったが、簡単な地図と駅構内の表示だけで目的地に行ける地下鉄は非常に便利だった。例外は「パリ近郊のベルサイユ宮殿」と「ナイトスポットのショー見物」で、ドイツ語ガイド付き観光バスを利用した。
◆パリ見物1(コンコルド広場~エッフェル塔~サクレクール~凱旋門)
ホテルにチェックインする前、荷物をコインロッカーに預けたのかフロントに預かって貰ったのか記憶がハッキリしない。フィルムの撮影順から到着した日はコンコルド広場とエッフェル塔周辺を歩いている。この日の写真は数枚なので、次の日のサクレクールや凱旋門と合わせて「ミニアルバム1」とした。
ミニアルバム1(クリックで拡大・移動)
◆パリ見物2(ナイトツアー)
花の都の土産話にと、ホテルのフロントでナイトツアー「リドのショー」に申し込んでみた。夕方バスの出発点のコンコルド広場に駆けつけると出発5分前だったが、変な小母ちゃん(実はガイドさん)が、このバスは満員だから向こうの英語ガイドのバスに乗れと言う。滞欧10ヶ月で「ダメモト精神」が身に付いた小生、諦めずに入り口から覗くと一番前の二人席が空いていた。
小 生 : なんだ、ここが空いているじゃないか。
ガイド : そこは私の席だ。
小 生 : 二人並んで座れば問題ないよ!
ガイド : 毛皮のコートを置く場所が無くなっちゃうからだめよ!
コート置き場と聞いて引き下がれなくなった。小生の下手なドイツ語と小母ちゃんの達者なドイツ語で舌戦が始まった。理は小生にあると思うが「言葉の量」では敵わない。叔母ちゃんが勧めた英語ガイドのバスは既に走り始めていたので、問答無用とばかりにバスに乗り込んで席に着いてしまった。 それで小母ちゃんも観念し、こちらのバスも走り出した。
ツアーの目玉は「リド」のショーだが、最終回のショーまでに時間があるので、バスは別のキャバレーに寄って時間を調整した。司会者が誰か舞台に上がれと言い出し、不運なドイツ人が引っ張り上げられた。結局、彼はズボンを脱がされてしまい、客席を沸かせた。小生は彼が股引を穿いていたのでビックリした。(何故かドイツ人は股引を穿かないと思っていたが、穿いてる人もいることを確認した。)
「股引目撃」で時間を潰した後、いよいよ「リド」である。バスに戻ろうと歩き始めた時、突然後ろから日本語のアクセントで「村野!」と声を掛けられ「股引目撃」以上にビックリした。同期入社のKだった。Kはヴェーゼルの工場に応援に来ていて、復活祭の休みを利用してパリ見物に来たと言う。 Kはバスの奥に座っていて、出発間際の小生とガイドの遣り取りを聞いていたと言う。
聞いていたのなら、「一言応援してくれたら良かったのに!」と思った。とは言え「奇遇」であった。もし、その晩のナイトツアーに申し込まなかったら、もし、 あっさり英語ガイドのバスに移っていたら、 この夜の遭遇は無かった。 同期入社と言っても、事業所も仕事も違うので社内で顔を合わせることは無かったが、リドではKと並んでシャンパンを飲みショーを見た。

◆パリ見物3(ヴェルサイユ宮殿バスツアー)
ナイトツアーの次の日、ヴェルサイユ宮殿に行った。ドイツ語ガイド付き観光バスだったので「もしや」と思っていたら、矢張り「件の小母ちゃん」だった。これも「奇遇」と言うべきか、単にドイツ語ガイドの数が少ないせいか、 不思議な縁だった。一人分の座席が必要と言うご自慢の毛皮のコートを着用していた。
宮殿の庭を周りながら、彼女の説明が “ヴェルサイユ宮殿のトイレ” に及んだ時、周囲のドイツ人がドッと笑った。ボンヤリ聞いていた小生は理解するのにワンテンポ遅れてしまい笑うタイミングを逸した。それを見て小母ちゃんは小生のヒアリング能力を見極めたようだった。自由行動に移る時、小生にだけバスの集合時間に遅れないよう二度も三度も念を押していた。
12月の二度目のパリでは同行者を案内してヴェルサイユ宮殿に行った。この時はツアーではなく往きも帰りも鉄道だった。二度目と言っても、ヴェルサイユ宮殿に鉄道で行くのは初めての小生、些か心細い案内人だった。パリのモンパルナス駅では案内表示を頼りに列車に乗り、最寄りのヴェルサイユ・シャンティエ駅に到着した。
シャンティエ駅前にタクシーが見当たらず当惑したが、人の流れに付いて歩いていたら無事宮殿に着いた。

ミニアルバム2(クリックで拡大・移動)
◆パリ見物5(オペラ座~ルーブル美術館)
ホテルの隣がオペラ座だったので、ホテルに出入りする都度、その偉容を目にした。とは言え、初めてのパリで駆け足旅であり、色々な観光スポットがあるので、オペラ座は建物を撮るだけで、オペラを鑑賞する余裕は無かった。そのオペラ座の前からルーブル美術館に向かう道が「オペラ通り」で緩やかな下り坂だった。
ミニアルバム3(クリックで拡大・移動)
◆パリ見物6(ノートルダム寺院)
ルーブル美術館からノートルダム大聖堂まで川岸に沿ってノンビリ歩いた。途中有名なポン・ヌフを渡った。塔に登る前、大聖堂の写真を下図の①~④の方向から数枚撮った。高さ69mの塔の内部に狭い階段があり、ゆっくり登った。登り終わった時、普段使わない筋肉が悲鳴をあげていた。

ミニアルバム4(クリックで拡大・移動)
◆滞欧最後の日のトラブル
12月27日、エルランゲンに戻る同行者と別れ、JAL便の出るドゴール空港に向かった。新空港はやたらに広いと言う印象だった。機内持ち込み手荷物の安全検査の際、おみやげを入れたビニール袋が紛失した。 フランス人の係員に文句を言うと、コンベヤーの通るトンネルを覗いて肩をすくめるだけで一向に埒が明かなかった。
誰かが間違えて持って行ったと思うのだが、JAL便はジャンボだったので乗客は数百名おり、いちいち聞いて回るのは不可能だった。半分諦め掛けていたが、搭乗口の近くの待合室にJALの日本人職員がいたので事情を話すと、搭乗待ちの乗客にアナウンスしてくれた。フランス人職員の対応とは雲泥の差で、暫くして袋は無事戻った。