フリーター生活に飽きた頃、漸く新学期が始まった。休学している間に立野分校が廃止され、教養課程は清水ヶ丘地区に移っていた。京浜急行の南太田駅から緩やかな坂道を上ったところに経済学部の建物があった。 二度目の一年生だが殆ど学校に出てなかったので、新入生に混じってもう一度オリエンテーションを受けた。
平成16年1月末 、40年ぶりに清水が丘を訪ねてみたが、付近を首都高狩場線が通ったせいか著しい変わりようだった。坂道を登る間中、昔通った道かどうか半信半疑だった。坂を登り切ると、見覚えのある石の門柱があった。古い高商時代の建物に変わって、県立高校のモダンな校舎があった。校門前の桜の木は見覚えがあるような気がしたが自信はない。高校の裏、昔グラウンドだったところは今は清水ヶ丘公園になっていた。

南太田駅は小さな駅で特急は勿論急行も停まらない。朝は横浜駅で特急から各駅停車に乗り換えるのだが、改装前の京急横浜駅はホームが狭く、ラッシュ時は身動きが取れないくらいホームに人が溢れた。しかし、市電で立野地区へ通うよりは京急の方が便利だった。各駅停車の車内には学芸学部の女子学生も大勢いて華やかな雰囲気だった。
清水ヶ丘の敷地は可成り広く、大学を統合する場合の候補地の一つだったようだ。体育の時間に校舎の裏手のグランドまで歩いたが結構距離があった。 高三の時から運動をしなくなっていたので、運動着も運動靴も持ち合わせが無く、体育の授業は偶にソフトボールに参加する程度で、大抵出欠を取った後エスケープした。
二度目の一年生としては、前年の反省から真面目に授業に出る積もりだったが、昭和35年は60年安保の年で、騒動が収まる6月末までは落ち着いて授業を受ける雰囲気ではなかった。騒動が収まった頃には夏休みが目前に迫り、二 回目の一年生も余り勉強した記憶がない。それでも学徒援護会の行き帰りに神保町に寄って本はかなり購入した。ただ、「積ん読」ことが多かった。
大学でも一応クラス編成があり、機械工学科と金属工学科所属の学生で一クラスを構成していた。必修科目の大部分はこのクラス単位で授業を受けた。小生の向学心が不足していたせいもあるが、魅力のある授業は少なかった。僅かに数学・図学・ドイツ語の授業が楽しみだった。他の科目は単位取得の義務感が強かった。
クラスがあるので各クラスの名簿もあって、物理や化学の実験でグループ分けする時は大抵名簿順になった。名簿はアイウエオ順だが、小生のような留年組と聴講生等は名簿の最後に登録されていたので、留年組のK、S、M(小生)と聴講生のNはいつも同じグループになった。そのうちKとNが同じ下宿に移ったので、学外でも四人で行動することが多くなった。
◆安保騒動
5月19日、自民党が単独で会期50日の延長を可決、さらに新条約を単独で採決したため、学内でも毎日のように決起集会が開かれ、国会周辺のデモへ動員を掛ける頻度が増えた。教室にいると時々自治会の役員が回ってきて国会デモに参加するよう勧誘された。小生はノンポリだったので校内の決起集会には顔を出したがデモには参加せず、 暇があると映画を見ていた。
その頃見た映画は殆ど記憶に無いが、フランス映画「勝手にしやがれ」は覚えている。主演のジャン・ポール・ベルモンドの印象が強烈だった。小生はフリーターから学生生活に戻ったものの未だ不安定な心理状態だったので、無頼の青年ミシェルの行動に興味を持った 。絶え間なくタバコを吸うベルモンドの真似をして喫煙習慣がついてしまった。

6月15日に国会構内に突入しようとした全学連主流派の樺美智子さんが死亡して、日本中に衝撃が走った。ノンポリでも映画ばかり見ている訳に行かないと思った。翌日Kと誘い合わせて国会周辺に出掛けた。
写真のように国会周辺はデモ隊で埋まり騒然としていたが、二人ともデモには参加せず、遠巻きにデモ行進を見ているうちに日が暮れた。
6月19日、新安保条約が自然承認された。岸首相が退陣して、所得倍増計画を掲げた池田首相の登場となった。 過去に 「貧乏人は麦を食え」発言で物議を醸した人物だ。
既に日本は高度経済成長の助走に入っていたようだが、その成果を実感出来るのは未だ先のことだった。騒動が終わり学内も静けさを取り戻したが、学業に専念する前に夏休みになった。
◆追試験
三学期が終わってホッとしていたら事務局から呼び出しの電報が来た。アルバイト先を抜け出して顔を出すと、単位不足でこのままだと留年だと言う。救済策として登録だけして試験を受けていない心理学の追試を受けろとのことだった。既に一度留年しているので、事務局としては「厄介者をなんとか追い出したい」らしい。他に方法が無いと言うので、追試の日程を打ち合わせて引き上げた。
心理学の授業には殆ど出席していないので困惑した。アルバイト先に戻って一緒に働いている同級のOに事情を話すと、優等生のOがノートを貸してくれると言う。 夕方、帰宅するOに渋谷駅まで同行し、私鉄で家まで往復するOを混雑する渋谷駅のホームで待った。(小生、品川ー渋谷間は薩摩守だったので、渋谷で私鉄に乗り換えることが出来なかった。)
数日後、事務局の応接室で試験を受けた。事務局の担当者は問題を渡すと直ぐに部屋を出て行ったので、いざとなったらノートを見ることも出来たのだが、幸いその必要は無かった。 付け焼き刃の小生は試験問題の中身は全然覚えていないが、一応解答出来たことは覚えている。Oのノートのお陰だった。