小学校

城南小学校正門(昭和20年代後半)

昭和22年に品川区立城南小学校に入学した。 同校は明治7年12月5日に開校された“古さ”を誇り、毎年創立記念日には紅白の菓子が支給された。明治の末に改築された木造の二階建て校舎は、外側から斜めの補強材で支える構造で、古い映画に出てくるような典型的な校舎だった。戦中・戦後の苦しい時期にメンテナンスが行き届かず、床も天井もボロボロだった。

校舎は“ロ”の字形で、旧国道側が前庭、反対側が裏庭、“ロ”の字の内側が中庭と呼ばれていた。前庭はアスファルトで舗装されていて、 二宮金次郎の像があり、毎朝その前で朝礼が行われた。裏庭は赤土の広い運動場だった。中庭には花壇等があった。廊下はボロだったが、掃除は丁寧で、箒で掃き、濡れ雑巾で拭いた後に仕上げの乾拭きを行った。

下図で分かるように品川はお寺の多い街で、我が城南小学校は三方を妙国寺・長福寺・常光寺に囲まれていた。昭和20年代前半まで、学校とお寺の間にあった塀は壊れたままだったので出入り自由だった。塀が再建された後でも、我々生徒は塀を乗り越えて出入り自由だった。当時は食べるのに精一杯で、昨今のように児童のセキュリティが問題になることはなかった。

南品川とその周辺(昭和20年代)

◆城南小学校の歴史
卒業記念アルバムに城南小学校の沿革が載っていた。明治7年12月5日にお隣の常行寺に間借りして開校したとある。元々あった寺子屋を拡張したのかもしれない。校舎が完成したのは開校から6年後で、生徒数の増加に伴い教室を増築、冒頭の校舎は明治45年に竣工している。昭和22年4月1日の学制改革(六三制の実施)で国民学校が廃止され、品川区立城南小学校と改称された。我々は改称後に初めて入学した生徒だった。担任の先生の名前は覚えているが、その時の校長先生の名前は全く記憶に無かった。60年後に見た古いアルバムで漸く校長先生の名前を確認出来た。

城南小学校の沿革(クリックで拡大)

◆南品川ミニ散歩
平成16年2月、旧東海道を歩いてみた。我が母校は周りをすっかりマンションに囲まれていたが昔ながらの石の門柱は健在だった。(下左端)   門柱の間隔が広がって門扉の幅は大きくなっていた。小生が入学した頃は門扉が無く、通り抜け自由で在学中に復活した。旧東海道に因んでか、当時は無かった江戸風の標識が門柱の脇に建っていて学校名が表示されていた。(下中央) 

子供の頃お世話になった品川診療所も健在だった。昭和20年代は、ここから数百m離れた路地の奥にあったが、30年代にこの地に移転した。休診日に足を怪我して担ぎ込まれた時、医者が不在だったので当直の看護婦さんが傷口を縫ってくれた。多分法律違反だったと思う。中耳炎の治療でお尻に大きなペニシリン注射を打たれたこともあった。何れもこの診療所の路地裏時代のことである。

城南小学校正門

門柱脇の江戸風標識

品川診療所

平仮名の練習(クリックで拡大)

◆お勉強
経済的に余裕が無かったので幼稚園には行かず遊び回っていた。入学前に親から片仮名を教わったが間際になって小学校は平仮名だと知り、急遽、名前だけでも平仮名で書けるよう練習させられた。「あいうえお」全部は憶えられず入学式を迎えた。
一年生の最初の授業は、悔しく恥ずかしかったので忘れられない。

点線で下書きされた「あいうえお」表の点線をなぞって完成させる課題が出た。 運悪く、小生の解答用紙はガリ版刷りの点線が掠れて見えなかった。平仮名は自分の名前以外の文字を知らなかったので、小生にはお手上げだった。

内閣告示(クリックで拡大)

当時は、未だ 「わ行」の“ゐ”とか“ゑ”とかも学習対象だった。書き難いし覚え難いのでイヤだった。昔の日本人は、“ゐ” や “ゑ” と “い” や “え”を区別して発音していたようだが、先生はその違いを説明してくれなかった。小学生には無理と思ったのか、先生にも説明は難しかったのか- – – – – – 。

ある日突然 “ゐ” や “ゑ” 使わないことになったと言われた。「新仮名遣い」に関する内閣告示(昭和21年11月)が末端の教育現場に浸透してきたのだった。当時は救われた気分だったが、今は子供の頃に旧仮名遣いも習っていた方が良かったと思っている。

二年生に進級する時クラス変えがあった。苦手なクラスメートが他のクラスになったのでホッとした。担任は“怖い”H先生からA先生に変わったが、A先生は何かの事情で「突然」若いY先生に交代した。当時のアルバムにお二人が写っている写真があるので、突然と言うのは小生だけの印象かもしれないが、子供の小生には「突然」だった。その後はクラス変えが無く、卒業までY先生の担任が続いた。

学校から帰ると近所で遊び回るのが日課だったが、偶に遊び相手がいなくて手持ち無沙汰にしていると、近所のSさんが道端で算数を教えてくれた。未だ学校で習ってないことや数学パズルに小生が興味を示したためと思う。Sさんに色々教わって、数はシンプルで美しいと思った。お陰で算数の授業は楽だった。

書取は苦手だった。書取の練習は単調なので長続きせず、なかなか覚えられなかった。怠けて覚えないので、小生を含む何人かが、毎朝、授業の始まる前に前夜Y先生が黒板に書いておいた漢字を何度も書く練習をやらされた。効果はあったが、自発的に継続しなかったので、我が漢字能力は還暦を過ぎた今も貧弱なままである。

漢字で思い出すのは、教科書に「本=ほん」という字が出てきた時のことである。同級生に山本君というのが居たので、教科書で習う前に「本=もと」と覚えていた。その時、漢字には色々な「読み」があると教えられ、驚くと同時にそんなものを全部覚えられるのかと不安になった。その時、心の奥に漢字に対する畏れが埋め込まれたような気がする。

◆校外授業
図工の時間には、時々学校を出て、品川神社・荏原神社・東品川公園等に写生に行った。絵を描くのは不得意だったが、学校の外に出られるので嬉しかった。それとは別に一度、東品川公園に近隣の小学校の生徒が集められ、集会の趣旨はよく分からなかったが、その中で歌を教わったことが強く印象に残っている。話の内容は覚えていないが、歌だけは今も覚えている。

集会で習った歌
作者・題名不詳
桜と冨士の明るい国の
文化の春に育つのは
僕たち君たち少年少女
明るく強く心と心
世界を愛で結ぼうよ

◆遠足(クリックで拡大)
終戦後の貧しい時代で親に連れられて出掛けるような環境になかったので、遠足、運動会、臨海学校、映画鑑賞会等の学校行事は大きな楽しみだった。特に遠足は小学生時代だけでなく高校生になっても嬉しかった。行き先は一年生の時が上野動物園で、 二子玉川、鎌倉、三笠公園、観音崎灯台、相模湖、日光の順に行ったと思われる。

 

 

◆学びの庭の思い出クリックで拡大
行方不明だった卒業アルバムが実家で見つかり、遠足以外の集合写真も何枚か出てきたので載せておく。

 

 

◆食糧難
低学年の頃はまだまだ食糧難で、夏休みは宮城県の叔母のところで過ごした。東北本線の小牛田で陸羽東線に乗り換えて古川まで行き、そこから叔母の家のある富永まで4~5Kmを歩いた。途中の江合橋がほぼ中間地点で、水量は少なかったが江合川の流れを見るとホッとした。昔は見通しが良かったのだが、現在は新幹線のコンクリート橋が出来て視界を遮られたので眺めは良くない。町村合併で古川市は大崎市に変わったが、駅名はそのままで、今では新幹線が停まる駅である。

富永村

東京へ帰る時、一度リュックサックにお米を入れて帰ったことがある。途中、大宮や赤羽で抜き打ちの検査があると聞かされ心配だった。当時は、食糧の統制時代であり、お米が見つかると闇米として没収された。 小生はホームを走って逃げたような記憶があり、うまく立ち回ったような気もするが、残念ながらその時の顛末はハッキリ覚えていない。子供なのでひと夏を富永で過ごすと、すっかり東北弁になっており、帰京しても暫くは東北弁が抜けず仲間にからかわれた。何年か過ぎて東京の食糧事情が良くなると、いつの間にか夏休みの東北行きは無くなった。