食べる会

付き合いの悪い小生が「食べる会」に参加する気になったのは、普段の生活では縁の無い高級レストランに行って美味しい料理が食べられると言う誘惑に抗えなかったためかと思います。学生時代、友人に誘われて伊勢佐木町の洋食屋でカツライスを食べたのが西洋式食事の初体験だった小生には、高級レストランはハードルが高かったのですが、職場の仲間と一緒なら何とかハードルを越えられそうな気がしたのかもしれません。

何となく始まった「食べる会」は40年近く続きました。その間に東京で16回、横浜で6回、合計22回開催されました。(下図参照) 残念ながら半数以上のお店が今は存在しません。高校で習った漢文「更に聞く桑田の変じて海と成るを。」を実感しています。食べる会も一期一会だったことに気がつき、参加したのに「何を食べ何を見たか」を記録しなかった自分を悔やみつつこのページを書いています。

食べる会map_東京版
食べる会map_東京版(店名をクリックするとそのページにジャンプします。)
01マキシム 02ロゴスキー 03キャッスルプラハ 06瀬里奈 08一心 10エルフラメンコ 13フォンテンブロー 14レカン 15インドネシア・ラヤ 16クレッセント 17アピシウス 18イゾルデ 19ラ・ベル・エポック 20バルゴ 21クラウンレストラン 22マキシム
食べる会map_横浜版(店名をクリックするとそのページにジャンプします。)
04パウロ 05アルテリーベ 07ローマステーション 09ハゲ天 11スカンディア 12瀬里奈

 


◆第1回:マキシム・ド・パリ(銀座)開催日不明
1966年(昭和41年)10月、マキシムが数寄屋橋交差点のソニービルの地下に開店、オープニングレセプションではソニービル1階のエントランスに赤い絨毯を敷き、青い目の外国人がフランス衛兵に扮して招待客を迎えました。ディナーレセプションは、ソニーの盛田副社長(当時)夫妻とフランス大使夫妻が主催、高松宮同妃両殿下を始め宮沢経企庁長官、在日欧米大使夫妻、財界人多数が出席して華やかな晩餐会となり世間の注目を浴びました。

数寄屋橋交差点とソニービル
数寄屋橋交差点とソニービル

マキシムが引き金になって始まった食べる会ですから第一回の会場は当然このマキシムでした。しかし、恥ずかしながら何月何日に開催したのか覚えておりません。パソコンの無い時代、メンバーは部内の数名だったので口頭連絡で済ませたかもしれません。マキシムのオープンが昭和4110月であることと、会費の積み立て期間を勘案すると、開催日は翌年の後半以降と思われます。

ナイフとフォークを使う食事は洋食屋のカツライスくらいだった小生、格調高いマキシムに一人で行くことはとても無理で、職場の先輩と一緒の会食といえども緊張していたと思います。費用の関係でディナーコースでなくランチコースだったと思うのですが、料理の内容は覚えていません。この時食べたマキシムの料理には「美味かった」と言う記憶がありません。でも「格調高いマキシムで食事をした」と言う経験で満足しました。

渋谷ロゴスキーエントランス(写真はWebより借用)

◆第2回:渋谷ロゴスキー 開催日不明
お店は、1951年(昭和26年)に僅か8席の店舗で開店、その後、読売の紹介記事でお客が増え 1955年(昭和30年)に30坪の店舗に移転、更に1965年(昭和40年)には渋谷東急ビル(その後に改名して東急プラザ渋谷)の完成と同時に移転しました。

食べる会の開催の日時は昭和42年か43年と推定されるので、渋谷東急ビルに移転して2~3年後と思われます。2015年、道玄坂エリアの再開発で東急プラザ渋谷の閉館に伴いお店は閉店しましたが、同年秋に銀座で開店しています。

ロシア料理は二度目でした。最初は大学3年の春休みにIHIの流体研究室で1ヶ月程アルバイトした時でした。打ち上げで研究室次長のS氏に八重洲口のロシア料理店に連れて行かれました。アルバイト学生には不似合いな雰囲気でしたが、初めて食べたピロシキは「とても美味い」と思いました。ボルシチの方は記憶が曖昧なのでそれほどでもなかったかもしれません。

肝心の渋谷ロゴスキーですが、渋谷駅からお店まで夕方の人混みの中を歩いた記憶があります。しかし、渋谷東急ビルやお店の雰囲気とか料理については全く覚えていません。二度目のロシア料理と言うこともあって印象が薄かったのか、何もかも先輩任せで小生は食べるだけだったからかもしれません。とは言え、その後暫くの間、機会があったら再訪したいと思っていた記憶があるので、料理は美味かった筈です。

◆第3回:キャッスルプラハ(六本木)開催日不明
六本木の東京日産ビルの最上階?にあったチェコスロヴァキアの国営レストランです。東京日産ビルの周辺は再開発されて、現在は六本木ヒルズとなっています。1971年竣工の東京日産ビルは六本木ヒルズの一部と言う扱いになっていて、六本木ヒルズノースタワーと呼ばれています。写真を見るとヒルズのビル群とは一寸雰囲気が違っていて、時代を感じさせるビルです。このビルについては全く記憶がありません。

南側の歩道から見上げて撮った「六本木ヒルズノースタワー(旧東京日産本社ビル)」
南側の歩道から見上げて撮った「六本木ヒルズノースタワー(旧東京日産本社ビル)」

現地に行けば何か思い出すのではないかと、2016年7月29日、新宿のエルフラメンコに寄った序でに、九段のグランドパレスを訪れた後、六本木周辺を歩いてみました。旧東京日産ビルは地下街で地下鉄の駅と接続しています。食べる会の当日は雨天だったこともあり、外からビルを眺める機会が無かったようです。築35年の古いビルですが〝六本木ヒルズノースタワー〟と言う粋な名前を頂いており、外観はなかなかのものでした。

六本木イゾルデには小さな楽団が入っていて食事の傍ら生の演奏を聞かせてくれたような記憶が微かにあります。テーブルの近くで料理にブランデーをかけて火をつける「フランベ」をここで初めて見たような気がします。チェコの国営と言うこともあり、堅苦しいルールのあるお店で、ネクタイとジャケットを着用してない客はお断りでした。

食べる会の当日、小生は先に席について待っていたのですが、入口の方が騒がしいので覗くと、参加メンバーで一番若いOh君が入店を断られ押し問答しています。コートの下がスポーツシャツだけだったので、上述のルールを適用されたのです。仲間数人で「折角来たのだから何とかしてよ」と交渉、お店のスタッフの上着とネクタイを借用することで手を打ちました。

ところで、今回も開催日時が不明です。昭和45年入社のOh君が参加しており、コート着用の時期だったことを勘案すると、第3回食べる会の開催は昭和45年12月から昭和46年2月頃と思われます。チェコ料理はドイツやオーストリアの食文化の影響を強く受けているそうですが、恥ずかしながら、この時に食べた料理を全く覚えていません。特に美味しかったと言う印象も無かったような気がします。

パウロのパスタ、こんな感じだったか?

◆第4回:パウロ 開催日不明
このページは2016年に書いたのですが、何故か第4回と第5回の記述がページから抜け落ちていました。気がついたのは2017年7月です。記事に載せた右の画像はサーバーに残っていました。パウロは早い時期に閉店したため、ネット上に情報が無く、失われた記述を取り戻す手掛かりがありません。

小生はパウロが元町にあって、廃業後はローマステーションが引き継いだと推測していたので、多分、そのことを書いたと思います。記事を書く前に野毛の市立中央図書館に出掛けて、昔の「中区住宅地図」を借り出し、元町のローマステーションを確認したことを覚えています。そのうち更に古い地図でパウロの痕跡を見付けたいと思っています。

◆第5回:アルテリーベ(横浜)1972年5月12日
上の第4回の項で触れたように、昨年書いた本項の記述が紛失したため、この項を改めて書き直しました。お店のサイトに「アルテリーベの歴史」が載っています。『ミュージックレストランアルテリーベは、「愛と酒と歌は喜びと楽しい雰囲気を創造する」をモットーに1965年に横浜の旧横浜商工奨励館の本町通沿いに開店し、1996年の夏に旧横浜商工奨励館の修復保全工事のため一旦閉店、2000年11月に現在の位置に移り、リニューアルオープンしました。』とあります。

当時の入口は一寸変わっていて、下の写真のように左手のビル(市外電話局)と右手の商工奨励館に挟まれた路地に高級レストランらしからぬテント造りの誘導路が設けられていました。多分、商工奨励館の中を通らずに本町通りから直接お店に入れるようにしたためと思われます。しかし、目立たない地味な造りだったことと、初めて行った時、既に暮れかかって暗くなっていたため、小生は看板に気づかず、店の前を行ったり来たりしながら時計を見て焦った記憶があります。

旧アルテリーベの入口(お店のホームページから拝借)

食べる会の時だったか、他の会食の時だったか思い出せませんが、生演奏の伴奏で歌い手さんが即興で歌うからと言ってリクエストを募ったことがありました。小生は中学の音楽の時間に習った「五月の歌」をリクエストしたのですが、演奏出来ないと断られたことを覚えています。モーツアルト作曲のかなりポピュラーな曲だと思っていたので演奏出来ないと言われてビックリしたのが忘れられません。

リクエストを受け付けて貰えなかった「五月の歌」

最近、YouTubeにエリーザベト・シュヴァルツコップが歌う「五月の歌」がアップされているのを見つけました。勿論、ドイツ語なので中学時代に習った日本語の「五月の歌」とは雰囲気が全く違います。シュヴァルツコップも良いですが、小生は昔習った日本調のシットリした「五月の歌」が好きです。残念ながらYouTubeにアップされている日本語版は我が好みではないので、ここにはシュヴァルツコップ版を載せておきます。

ドイツ語歌詞と歌手

 現在のお店
リニューアル後は旧館部分の1階の西角に位置し、銀杏並木の日本大通りに面して入口も高級レストランの雰囲気が漂います。写真手前の4階建て部分が旧横浜商工奨励館の旧館部分で、その背後に見える12階建てが追加された新館部分です。現在は「横浜情報文化センター」と呼ばれ、日本新聞博物館と放送ライブラリーを中心に情報関連産業のオフィス、ホール、大小の会議室、店舗、パブリックスペースなどからなる複合施設となっています。

2016年7月18日、祝日(海の日)なので、この日の散歩は混雑する横浜駅周辺を避けて、市営バスで日本大通りまで行き、食べる会が開催されたスカンディア、ローマステーション、アルテリーベの写真を撮りながら関内駅まで歩きました。初めてアルテリーベに来た時に入口を探してウロウロしたことを思い出しながら、この日も入口を探してビルのあるブロックをグルッと一周しました。

新アルテリーベの入口

◆第6回: 瀬里奈本店(六本木)1972年11月
1961年創業の「瀬里奈・本店」は、神戸牛を使った本格派のしゃぶしゃぶ店です。食べる会の初回から皆勤だった小生ですが、この回は不参加でした。当時あまり仕事熱心ではなかった小生ですが、入社8年目、緊急の会議か出張があったと思われます。なお、全22回の食べる会の中でこの回が最も参加者が少なかったようです。因みに、連続参加は、Ikさんが第8回まで、Os さんが第11回まで記録しています。

2016年7月29日、レストランイゾルデのあった六本木ヒルズノースタワーの写真を撮った後、現在の瀬理奈本店の様子を見るため六本木の街を歩きました。梅雨明けの炎天下、一寸歩いただけで大汗をかきました。地図を用意してなかったので行ったり来たりしながら本店に辿り着きました。お店の前でカメラを構えている間にもお客さんの出入りがあり、経営はまあまあのようでした。

瀬理奈本店
瀬理奈本店

「しゃぶしゃぶ」は日本料理ですが、大陸の調理法がヒントになったようです。名前の由来は、1952年(昭和27年)に大阪のスエヒロが自店の料理を「肉のしゃぶしゃぶ」として商標登録したのが始まりです。専用調理鍋の中央にある煙突状の円筒は、七輪で鍋を加熱する際に不完全燃焼を回避するためのものですが、煙突効果によって火力が増強されると言う二次的効果もありました。

◆第7回:ローマステーション(横浜)1973年10月12日
ローマステーションは「食べる会」で行ったのが初めてでした。その後二度行っているのですがどんな建物だったかは思い出せません。お店の外観をグーグルのストリートビューで見たのですが「ここだ。ここだ。」と言う感じではありません。別のサイトに、80年代初期、横浜にはローマステーションが3軒あったと書かれていました。山下町が本家本元で、石川町と相生町はのれん分けされた独立店だった、と書かれています。

自分の頭の中には「山下公園の近くでイタリアン海鮮料理」と言う記憶だけが強く残っているので、食べる会の会場は、本家本元の山下町のお店だったと思っているのですが、我が怪しげな脳には「石川町でもイタリアンレストランに行った」と言う記憶も残っていて、揺れ動いています。あるいは石川町だったかもしれませんが、取り敢えず、食べる会は山下町のお店だったことにしました。

ローマステーション

 

しゃぶしゃぶの原宿一心
しゃぶしゃぶの原宿一心の閉店情報

◆第8回:一心(原宿)1975
1975年に行ったのですが、何月だったかは不明です。微かな記憶では暖かい季節だったような気がします。残念ながらこのお店も今は存在しません。閉店したのはそれほど昔ではなかったようです。ネット上にお店の痕跡が残っていました。

しゃぶしゃぶ初体験でした。我が家では、偶にすき焼きは食卓にのぼりましたが、しゃぶしゃぶは皆無でした。サラリーマンになって10年、その気になれば「しゃぶしゃぶ」を食べられるようになったのですが、なかなかその気にならず、食べる会のお陰で漸く食べることが出来ました。

当時は食欲旺盛な30代だったので、初めてのしゃぶしゃぶは美味しかったけど何だか物足りないと言う印象でした。なお、第6回の六本木瀬里奈と第12回横浜瀬里奈もしゃぶしゃぶでしたが、第6回は何かの都合で不参加、第12回はドイツ出張中で参加出来ませんでした。どうも小生はしゃぶしゃぶと縁が薄いようです。

ハゲ天 ジョイナス店の店先(Webより)

◆第9回:ハゲ天(横浜)1976年5月24日
食べる会の和食は「しゃぶしゃぶ」が3回と「天ぷら」が1回です。その1回が、今回の「ハゲ天」でした。横浜駅西口の地下2階の食堂街にあるお店なので、食べる会のコンセプト「高級レストラン」のイメージではありません。

高級なお店ではなく普通の天ぷら屋さんが選ばれたのは、暫く日本を離れてドイツ暮らしをする小生のために、西洋料理ではなく和食を計画してくれたようです。序でに歓送会の意味も込められていたのかもしれません。

隠居してからは、横浜駅周辺を散歩するのが日課になっていますが、歩くのは地下1階が主で地下2階はご無沙汰でした。この項を書くために、ハゲ天のサイトにアクセスしたところ「閉店」と出て来たのでビックリしました。

ハゲ天は、以前は東口の地下街にも姉妹店があり、プラザホテルの4階にあった碁会所の帰りに偶に寄ったりしたのですが、そちらもいつの間にか閉店しており、今は「そごう」の食品売り場にテイクアウトの専門店があるだけのようです。

伊勢丹会館
伊勢丹会館

◆第10回:エルフラメンコ(新宿)1976年12月7日
エルフラメンコは、1967年、新宿の伊勢丹会館の6階に開店しました。ここで食べる会が開かれた時、小生は地球の裏側で悪戦苦闘していたので参加出来ませんでした。従って、お店については何の思い出もありませんが、食べる会の会場となったことで微かな縁が出来ました。

店名からスペイン料理を食べながらフラメンコを鑑賞するお店らしいと想像出来ます。ネットで検索するとお店の予約サイトがヒットしました。予約サイトがある以上お店も安泰と思いつつ、エルフラメンコのサイトにアクセスしたところ、何と真っ先に下記のお知らせが目に入りました。

– – – – – – お知らせ(要約) – – – – – –
1967
年の開店以来49年間営業を続けてまいりましたが、諸般の事情により2016年7月26日で閉店致します。
— – – – – – – – – – – – – – – – – – – – –

エルフラメンコ、お前もか!
と言いたいところですが、食べる会で訪れたお店の半数が撤退していることを考えると、やむを得ないのかなとも思います。サイトにアクセスしたのは閉店の1~2週間前だったので、閉店までに一度覗いてみたかったのですが、梅雨明けが遅れてお天気が芳しくなく体調もイマイチだったので延び延びになってしまいました。

結局、首都圏の梅雨明け宣言の翌日、2016年7月29日に出掛けたので7月26日の閉店には間に合いませんでした。当然お店の入り口は閉じられていると思ったのですが、念のためエレベータで6階まで昇ってみると、店先に明かりが点いていました。未だ「貸切」の営業が残っていたようです。とは言え、いつまでも貸切予約が続くとも思えませんので、近々完全に閉店になると思われます。

閉店したエルフラメンコ
閉店したエルフラメンコ(本日貸切の表示が見えます)


◆第11回:スカンディア(横浜)1978年6月18日
大桟橋の手前の開港広場前にある北欧料理のお店です。折角の地元横浜なのに小生は不参加でした。不参加の理由は記憶してませんが、前年の年末にドイツから帰国したので、この年は各工場を巡回して出張報告をしたりしていたので色々雑事が重なったのかもしれません。食べる会に参加しなかったので「スカンディア」と言うお店の名前も脳ミソに刻まれませんでした。

サイトにアクセスしてサイズの小さな写真を見ても「何処かで見たことがあるな」と思っただけでした。大桟橋の往き帰りに何度もこのお店の前を通り過ぎていたのですが、ここで開かれた「食べる会」に参加しなかったので見逃していたようです。地図でお店の位置を確認して漸く「大桟橋の手前にあるお店」と気が付きました。先日、新しいアルテリーベを見に行く序でにこちらにも足を向けて写真を撮ってきました。

スカンディア

北欧料理と言えば、昔、ドイツに1年半ほど滞在した時、夏休みをとって「北欧駆け足旅行」をしたことを思い出します。但し、朝食はホテルでバイキングスタイル、昼間は街中でファストフード(北欧風オープンサンド:スモーブロー smørrebrød)、夜はその気になれば本格的北欧料理を食べる機会があったのですが、疲れていてホテルの食堂で食べ慣れたステーキ等で間に合わせていたので、これぞ北欧料理と言うモノを食べた記憶がありません。

横浜瀬里奈のあった天理ビル(Webから借用)
横浜瀬里奈のあった天理ビル(Webから借用)

◆第12回:横浜瀬里奈1980年10月8日
地元横浜での開催だったのにこの回も小生は不参加でした。横浜瀬里奈の店舗は途中で変わっており、1980年当時の瀬里奈は西口の天理ビルと伊勢佐木町のオデオンビルにお店がありました。食べる会は天理ビル店で開催したと思われます。当時のお店は既に閉店されて関内に移っています。

横浜瀬里奈は1973年に六本木瀬里奈の支店として横浜駅西口の天理ビルに開店、更に1976年に伊勢佐木町のオデオンビルの9階に「横浜瀬里奈いせぶら館」を開店しましたが、1984年に「いせぶら館」を閉店して関内に「浪漫茶屋」を開店、1989年には馬車道に「ステーキドーム」を開店しました。

1999年に六本木瀬里奈が経営から撤退、2001年に天理ビル店を閉店して関内の浪漫茶屋に移して「横浜瀬里奈 浪漫茶屋」として営業しています。高度成長期からバブル期を経てデフレ低迷期を生き延びるには変化が必要だったようです。

 

現在の帝国ホテル(Webより借用)

◆第13回:フォンテンブロー(帝国ホテル)1981年12月12日
マキシム・ド・パリの華麗な登場に刺激されたのか、
東京の高級ホテル(帝国ホテル、ホテルオークラ、ニューオータニ等)がホテルのメンツを懸けて高級フレンチレストランを構えました。今回の食べる会は帝国ホテルの高級フレンチレストラン「フォンテンブロー」でしたが、小生は何故か不参加でした。

何十年も前のことなのでハッキリしませんが、多分、課員の研修論文作成が遅れたためと思います。彼の論文を人事部門に提出する前に小生がチェックする必要があったのですが、なかなか完成せず、小生も帰るに帰れず、高級フレンチを味わう好機を逸したと言うのが真相と思われます。

それでも当時はその気になればいつでも行けると思っていたのですが、バブルが弾けて社用族が減ったためか、フォンテンブローは 19921月に閉店してしまい永遠に機会を失しました。ホテル御三家のうち、第19回のホテルオークラと第20回のニューオータニには参加出来たので、この回の不参加は余計に悔やまれます。

銀座レカン前
銀座レカン前(Webより拝借)

◆第14回:銀座レカン 1982年12月17日
銀座のど真ん中にある高級フレンチレストランなので、一寸緊張して早めに会場へ向かったようです。お店に着いたのが早過ぎたので、お隣の山野楽器店に入って買う気もないのに店内を見て回って時間調整したことを覚えています。

山野楽器店を出てレカン入り口を入ると直ぐに階段がありました。ミキモト本店ビルの地下1階が銀座レカンでした。山野楽器店で時間を潰したのは覚えているのですが、肝心の銀座レカンで何を食べたのかは思い出せません。ただ、朧気ながらも高級レストランの堅苦しい雰囲気だけは記憶に残っています。

右の画像は「第7回東京グランメゾンチャリティカレー」が開催された2014年6月1日の写真です。中央に見える正方形の赤い看板の下が銀座レカンの入り口です。その左に見えるキムラヤパンの看板の手前の青い看板が山野楽器店で、上の方に「器」の字が半分だけ見えています。

このページを書くためお店のHPにアクセルしたら、一時休店のお知らせが載っていました。経営難?と思ったらそうではなく、2015年1月からミキモト本店ビル建て替えのため休店し、2017年春に装い新たに再開するようです。閉店でなく一時休店だったので安堵しました。

古いお店の記憶を残しておくために、店内の写真をお店のホームページから拝借して載せておきます。

休店前の銀座レカン店内
休店前の銀座レカン店内(Webより拝借)

インドネシア・ラヤ入口
インドネシア・ラヤ入口(Webより)

◆第15回:インドネシア・ラヤ(新橋)1983年11月15日
22回の食べる会の中では異色のエスニック料理でした。高級レストランと言うよりは、珍しいインドネシア料理と言うことで選ばれたのではないかと思います。お店は繁華街から外れていたのでかなり探してウロウロした記憶があります。

同店は戦時中インドネシアに赴任していた人の奥方が1957年(昭和32年)に開業しました。その後、娘さんが引き継いで、2007年には50周年記念イベントを行ったのですが、業績不振には勝てず翌2008年に閉店しました。新橋の繁華街から外れたオフィスエリアと言う立地条件では土日の集客が難しかったようです。

写真は新橋経済新聞(業界紙?)が閉店を報じた記事中に使ったものです。我々はウロウロしながら何とか探し当てて中に入ったのですが、一行のうちの誰かが奇妙な入口に気が付いて、先に入った者も入口に戻って見上げて騒いだのを覚えています。なお、インドネシア料理は高級フレンチと違って単価が安かったのか、食べきれないほど沢山出て来たような気がします。

赤煉瓦のクレッセント
英国風赤煉瓦造りのクレッセント

◆第16回:クレッセント(芝公園)1984年11月9日
終戦後間もない1947年秋、古美術商の店舗が増上寺・中門の近くに誕生、その10年後の1957年、店舗を増改築して、レストランクレッセントが営業を開始しました。

更に、その10年後の1967年、創業20年を記念して建て替え工事に着手、翌年の1968年に英国風煉瓦造りの洋館(地上5階・地下2階)が完成しました。右の写真はその英国風煉瓦造りの洋館です。

実は2010年と2011年にNEC杯の決勝大会を観戦するため芝公園近くのメルパルクホールまで出掛けたのですが、当時はクレッセントのことが全く頭に浮かばず、折角カメラを持っていたのに写真を撮る機会を逸しました。

右上の写真は2016年7月29日にエルフラメンコを覗いた帰りに立ち寄って撮ったものですが、レストランの前の道路は道幅が狭い上、道路に沿って芝公園の木立が生い茂っているため、正面からの撮影距離がとれず、若葉マークのフォトグラファーは一寸持て余し気味でした。

入り口の辺りを拡大したのが下の写真です。

クレッセント入り口
クレッセント入り口(石段に合わせた斜め屋根のポーチが印象的)

蚕糸会館
蚕糸会館

◆第17回:アピシウス 1985年11月1日
有楽町駅近くの蚕糸開館の地下1階にありますが、小生は不参加だったので、料理の味もお店の雰囲気もコメント出来ません。

と言っても、参加したお店のことも忘れてしまった老人のことですから、今となっては参加も不参加も大した違いは無いかもしれません。

アピシウスのサイトを覗くと、服装に関してのお願いが載っていました。軽装だと入店を断られる可能性があります。

コレを見て第3回のキャッスルプラハで若い Oh君が入店拒否されて危うく追い返されそうになったことを思い出しました。キャッスルプラハは疾うの昔に閉店しましたが、長く続く景気低迷にも営業を続けているのは立派と思います。蚕糸会館は古いビルのようなので安いテナント料で助かっているのかもしれません。一度も入ったことがないお店せですがこれからも頑張って欲しいものです。

アピシウス入り口
アピシウス入り口

◆第18回:六本木イゾルデ 1987年4月24日
既に閉店しているため、ネット上にもお店の情報が見つかりません。この回も参加したのにお店や料理のことは全く思い出せないので困惑しました。
ネットサーフィンの途中で見つけた地図を下に載せます。中央の赤い十字マークがお店の位置と思われます。後日、ネットサーフィンの履歴を追ったのですが、膨大で追い切れずどこのサイトで見たのか分かりません。

六本木イゾルデの位置(掲載サイト不明)

なお、ネット上でイゾルデについて書いたブログは何点か見ましたが、お店の名前を引用する程度のものばかりで、残念ながら具体的なお店のイメージを掴むことは出来ませんでした。現在営業中のフレンチレストランのシェフの経歴を見ると、六本木イゾルデで修業したとか、料理長をしていたとか、副料理長だったとか、六本木イゾルデと何らかの縁のあるシェフが多いです。人の出入りが多かったようにも思われ、料理店の経営と言う点で良かったのかどうか?

ホテルオークラ別館
ホテルオークラ別館(Webより借用)

◆第19回:ラ・ベル・エポック  1988年4月19日
1973年に開店した同店はホテルオークラ別館の最上階です。食べる会の当日、一寸遅れ気味だったので急ぎ足で別館に向かいました。何とか間に合ったと思ったのですが、入口附近に人集りがあって物々しい雰囲気でした。

別館で催された何かの行事にご臨席された皇太子・美智子妃両殿下が帰られるので一時的に一般客の出入りを制限していたのです。遅刻を覚悟し入口から少し離れた人の群れに混じって待っていると両殿下が出て来られました。

厳戒と言う程の警備ではなかったので、小生のような「やじ馬」も間近で両殿下をお見送り出来ました。例の通り、お料理の内容はあまり記憶がありませんが、ラ・ベル・エポックの店内の佇まいは幾らか記憶に残っています。何よりも別館入り口での偶然の遭遇が印象的で忘れられません。この別館には縁があって、囲碁の大盤解説会で退職前後の数年間、毎年1度か2度通った思い出があります。

ホテルオークラは2020年の東京五輪に向けて本館を建て替え中で、現在は別館だけで営業しています。ラ・ベル・エポックは、2015年の夏に2ヶ月半ほど休店した後、新しい店「ラ・ベル・エポック&バロンオークラ」としてリニューアル開店しました。フランス料理とワインダイニングを融合した店です。ホテル御三家の高級フレンチ、フォンテンブロー(帝国ホテル)やバルゴ(ニューオータニ)が閉店した中で、ラ・ベル・エポックは頑張っているようです。

ニューオータニ ガーデンタワー(Webより借用)
ニューオータニ ガーデンタワー(Webより)

◆第20回:バルゴ 1989年3月20日
第13回のフォンテンブローや第19回のラ・ベル・エポックと並ぶホテル御三家の高級フレンチレストランですが、フォンテンブローと同様に既に閉店して今は存在しません。閉店したバルゴの情報をネットで探したのですが見当たりません。

会場や料理については全く覚えてないので弱りました。あるブログの書き込みで、バルゴはガーデンタワーの40階にあったこと、現在はブッフェの 店「TOP]が営業していること、が分かりました。

食べる会当日は四谷駅から上智大学の横を通ってホテルに向かう道を歩きました。歩き始めて「何だか歩いたことがあるような道」だと思いました。本社で新入社員研修を受けていた時、ある日突然、研修会場が上智大学に変更され、半日くらい上智大学の教室で研修を受けたことを思い出しました。

鈍感な新入社員と言えども、関係会社の倒産でアタフタした本社の雰囲気を感じていたので突然の会場変更もそれと関係ありそうだと推測してました。会社の苦境を感じつつも会社や自分の先行きを心配した記憶はありません。

既に書いたように「食べる会」で訪れたレストランの半分が閉店しています。どんな事業でも安定して継続することは難しいですが、景気停滞が長引き社用族が激減している昨今は高級フレンチレストラン の営業を続けるのはなかなか厳しいようです。


◆第21回:クラウンレストラン 1990年4月6日
クラウンレストランのデザインコンセプトは「空から見た都会の夜景」と言うことですが、我が脳ミソにはレストランの佇まいや料理の内容が全く残っていません。我ながら心細くなるほと記憶が欠落しています。当時、勤務先が八王子に近い東京工場地区だったので、自分では元気なつもりでも遠距離通勤が心身共にダメージを与えていたのかもしれません。

クラウンレストランについて何も思い出せないのは残念ですが、2016年7月29日、新宿のニコンプラザに出掛けた帰りに寄ってみました。地下鉄の九段下駅を出たところに案内板があったのでホテルの方向を確認して歩き始めると直ぐにホテルが目に入りました。どうも来たことがある感じですが、それが食べる会だったのか他の用件(研修会等)だったのかはハッキリしません。

ホテルグランドパレス
ホテルグランドパレス

ホテルのロビーに入れば何か思い出すかもしれないと思ったのですが、全然思い出せません。折角来たので、食事はしなくてもレストランを覗いてみようと、エレベーターで23階に昇りました。エレベーター室の直ぐ横がレストランでしたが、ここでも記憶は蘇りません。とは言え、東京の高級フレンチレストランが次々と閉店していく中で営業を続けているのは立派だと思いました。

クラウンレストランの入り口
クラウンレストランの入り口

 

マキシム・ド・パリ
マキシム・ド・パリ

◆第22回:マキシム・ド・パリ 1993年9月11日
食べる会の最終回なので幹事のTk氏は第1回と同じマキシム・ド・パリを選定しました。土曜日開催は珍しいのですが、あるいは当時信州の工場に勤務していた小生の都合を考えてくれたのかもしれません。

記念すべき最後の回だからよく覚えているかと思ったのですが、残念ながらさっぱり覚えていません。後日送られてきた会計報告を見ると、会の開催時間は18:00~20:30で、一人あたりの支払いは¥24,000 だったようです。

食べる会のトリガーとなった「マキシム・ド・パリ」ですが、2015年6月30日で閉店しました。マキシムが入居していたソニービルも2017年3月31日で営業を終了し解体されることになりました。跡地は暫く「銀座ソニーパーク」として開放されます。新ビルの建設は2020年秋以降に開始され、新ソニービルの営業開始は2022年秋の予定です。

 

[あとがき]
毎回、「覚えていない」とか「記憶に無い」の連続で途中で作成を諦めかけました。記憶が無いのに作成出来たのは、第13回から参加して幹事役を引き受けてくれたTk氏のお陰です。最終回の会計報告に添付されていた『「食べる会」のあゆみ』に載っていた開催場所・日時・参加者名が頼りでした。最終回のマキシム・ド・パリから既に20年以上経っており、記憶は微かに残っているだけですが、今でもその余韻にひたることが出来ます。