◆立野分校
昭和34年は前年秋の皇太子婚約発表以来、日本中がご成婚で盛り上がっていた。4月10日のパレードはTV中継されたので、TV受像機(モノクロ)の普及を促進したようだ。日本経済は既に高度成長の助走期に入っていたのかもしれない。30年間成長が止まっている現在の日本と違って、貧乏だったが国中に活力が溢れ、我々若者も元気だった。

初めて立野分校へ行く日の朝、桜木町駅前の市電の停留所周辺は通勤ラッシュで大混雑だった。市電は駅前を起点とする路線が6系統、通り抜ける路線が5系統あって、初めての小生は 行き先表示や路線番号では最寄りの電停「大和町」を通るのかどうか分からず、駅前を右往左往、何とか大和町を通る市電を見つけて乗り込んで安堵した記憶がある。
中華街の前を通って本牧方面に暫く走ると大和町だった。電車を降りて、畑の間の狭くて急な坂道を15分位登った。立野分校は丘の上で、途中に農家の牛小屋があり、 朝夕の行き帰りの都度その臭いに閉口した。立野分校は付属小学校に居候していた。校庭は狭く休み時間にソフトボールをするのがやっとだった。
◆40年後の立野地区
ホームページを書き始めて、思い出の地が今はどうなっているのか知りたくなり、平成16年1月28日の午後、40年ぶりに訪ねてみた。昔と違って市電は無いが、学校の近くをJR根岸線が通っており、最寄り駅は山手駅である。
◆休学
囲碁部に入ろうかと思って、部室に顔を出してみたが小生のような初心者には敷居が高く、諦めて自動車部に入部した。自動車部の拠点は工学部のある弘明寺地区なので、週に1度、立野から弘明寺に通うことになった。先輩の運転で市内をアチコチ案内して貰ったことを覚えている。何度か通った後、足が遠のいて有耶無耶のうちに退部した格好である。
5月までは真面目に教室に顔を出していたが、そのうち図書室に籠もるようになった。読書に飽きると、三溪園や港の見える丘公園に出掛けた。前期が終わった時、大学の事務局より家に連絡があって一寸ゴタゴタした。結局、後期は休学することにした。翌年の新学期までの半年程、今様に言えばフリーターになった。
◆学徒援護会
フリーターとしては、仕事を探さなければならないが、休学中なので大学の事務局のお世話になる訳にいかない。止むを得ず、九段の学徒援護会に行った。場所は現在の北の丸公園で武道館の近くである。当時は古い近衛連隊の兵舎が残っていて、その一部を学徒援護会が使っていた。兵舎は戦後メンテされた様子が無く、最初に見た時はその汚さにビックリした。

求職する学生は、予め援護会に登録をして会員になる。毎日、求人情報が張り出されるので、会員は締め切り時間までに希望の求人案件に応募する。時間が来ると係員は求人案件と応募者とを勘案して、仕事の斡旋をする。人気の高い案件に応募すると競争が激しく仕事にあぶれることもあった。
締め切りから発表までの時間は不規則で、その日の求人状況によって変わるため、待ち時間を利用して用事を済ませることは難しかった。大抵は会館の周辺で時間を潰した。自販機やコンビニも無い時代で飲食に不便だった。空腹を我慢して千鳥ヶ淵の土手の木陰で文庫本を読んでいた記憶があるが、雨の日や寒い季節はどう過ごしたのか、全く思い出せない。
仕事先は、個人の家庭、工場、研究所、官公庁等々色々あり、職種も家庭教師から可成りの重労働まで雑多だった。割の良いのは家庭教師だが、社交性に欠ける小生は家族との関わりなどで煩わしいこともあって1度で懲りてしまった。 体力が無いので重労働を避けて、オフィスワークか軽労働に的を絞って応募した。
十代の終わり頃にフリーター生活を送ったことは、回り道のようでもあるが良い経験をしたと思っている。色々な職場で大勢の人に出会い、迷惑を掛けたりお世話になったりしながら、少しは働くことの実態や世間を知ることが出来たと思う。その後も在学中の4年間(計5年間)、春・夏・冬の休みには学徒援護会のお世話になった。