中学校

昭和28年に品川区立東海中学校に入学した。戦後の学制改革で旧東海小学校が中学校に変身、新制の東海中学校として開校された。写真は、2013年6月3日に撮った現在の校舎である。鉄筋コンクリート造りだが改築後半世紀が経っているので、かなり草臥れた印象である。

品川区立東海中学校
品川区立東海中学校


同級生の中で数人が私立中学に進学、殆は区立中学に進学したが、住んでいる区域の関係で東海中学以外に進んだ者も何人かいた。
当時、学校の評判はイマイチだったが、子供の小生はあまり気にしなかった。生徒は近隣の複数の小学校から集まるので、クラスメートの大部分は知らない顔であった。

一年二組(東海中学校)
一年二組(東海中学校)

上の記念写真には改築前の古い校舎が背景として写っている。当時は何とも思わなかったが、今見るとかなりヒドイ状態であったことが分かる。中学生になって一番嬉しかったことは、大嫌いな給食から解放されたことだった。それまでのランドセルにサヨナラして、詰め襟の学生服とショルダー型のカバンを新調して貰い、張り切って通学した。

詰め襟の制服を着たためか、当時は随分大人になった様な気がしていたが、還暦を過ぎて上の写真を見ると、全くの子供だったことが歴然として苦笑する。中学に入ってから急速に視力が落ちて、黒板の字がボンヤリとしか見えなくなった。はじめ「中学校の先生は力の無い字を書くな」と思ったが、自分の近視が悪化したせいだった。

字が見えないことと横着な性格のため、その頃からノートを取るのを止めてしまった。その代わり簡単なメモを教科書の余白に書き込んだ。二年生になって日本史の授業が始まった。担当のY先生は毎回講義内容をノートさせ、後日ノートを提出させるので困惑した。そのうち、日常生活にも困るようになり、近視の眼鏡を作った。世の中はこんなにクッキリ ・ハッキリしているのかと驚いた。


◆体育祭

体育祭の光景
体育祭の光景

中学校の思い出はあまり無いが、春の遠足と秋の運動会は僅かに記憶にある。旅行の方は楽しみだったが、運動会の方は敬遠したい気持ちが強かった。

行進や応援歌の繰り返し練習は面白くない。一年生の時はまじめにやっていたが、二年生になるとサボって教室から出なかった。三年生の時は練習だけでなく本番もサボったような気がする。

 

 

 

 


◆遠足1(城ヶ島)
一年生の時の遠足は城ヶ島で、初めて貸し切りバスに乗って旅行した。出発後暫くして酷く気分が悪くなった。バスに長時間乗るのは初めての経験で、乗り物酔いだった。鉄道では酔ったことが無かったのでその苦しさに困惑した。途中の休憩所でバスを降りた時、物陰で秘かに吐いてしまったが、それが良かったようでその後はすこぶる快調だった。

城ヶ島
城ヶ島

このバス旅行、乗り物酔い以外はよく覚えていない。船で城ヶ島に渡ったことは朧気に覚えているが、残念ながら島で何をして何を見たのか全く記憶が無い。

◆遠足2(一碧湖)
二年生の時の遠足は伊豆の一碧湖だった。観光開発される前の一碧湖周辺は素朴な田舎と言う印象だった。30年後、職場の旅行で伊豆高原に行った帰りにその付近をドライブしたが、すっかり観光地化していて昔の面影は無かった。大室山にはリフトが出来ていて簡単に頂上に登れた。

伊豆・一碧湖
伊豆・一碧湖

◆遠足3(小仏峠・景信山)
三年生の時の遠足は小仏峠だった。関西旅行は参加出来なかった生徒が大勢いたので、秋に全員参加可能な遠足を催したようだ。10台近い貸し切りバスを連ねて小仏峠・景信山に向かった。小生の乗ったバスは到着が遅れたため、登り始めた時には既に先頭から相当離されていた。

山登りのイロハを知らず、先を行く連中を追い抜きながら登ったが、張り切り過ぎて途中でダウンしてしまった。ゆっくり登ってきた女生徒達にも次々と追い抜かれてしまい面目丸潰れ無念だった。疲労困憊しながらもなんとか頂上に辿り着いた。

小仏峠・景信山
小仏峠・景信山1

しかし、弱り目に祟り目か昼食の時クラスメートKの果物ナイフが小生の顎に当たるハプニングがあった。傷口に絆創膏を貼って止血した証拠写真が残っている。

小仏峠・景信山2
小仏峠・景信山2

◆関西旅行
中学生活を締めくくる修学旅行は京都・奈良・大阪だった。主要な名所旧跡をバスで回る駆け足旅行だったので何処を回ったのか記憶が朧で、手元に残った数枚の集合写真で知るのみである。この写真は嵐山を背景に同行 した先生方の集合写真である。生徒の集合写真も撮った筈だが、嵐山のモノは手元に無い。小生は独自行動していて撮影に間に合わなかったのかもしれない。

関西旅行1(嵐山)
関西旅行1(嵐山)


旅行費用は一年生の時から毎月積み立てていたが、それでも経済的理由で参加しない生徒がかなりいた。下の画像は
平安神宮での集合写真である。7組・8組・9組の3クラス一緒なので一人一人の画像が小さく見難いが、後列の矢印が小生である。

関西旅行2
関西旅行2(平安神宮)


下の画像は清水寺での集合写真である。こちらも3クラス一緒なので見難い。狛犬さんの側の矢印が小生。

関西旅行3(清水寺)
関西旅行3(清水寺)


3年7組の男子生徒。何処を見物したかも朧なので、旅行中の食事については何も覚えていない。偶々、この日京都を離れるので、朝食後、誰かが提案してその場に居合わせた生徒だけで記念写真を撮ることになった。カメラを持参した生徒が何人かいたので、その中の一人が撮ったと思われる。後列右から3人目が小生。

IMG_0046ntsp
関西旅行4(京都の宿の朝食後)


奈良・猿沢の池での記念写真。3年7組だけの写真なので画像が大きく顔の識別も出来る。矢印が小生。退職後、何度か奈良に行っているが、猿沢の池は好きなスポットである。
しかし、中学生だった当時は「何だか冴えない池だ」と感じたことを微かに覚えている。この旅行では、奈良市内→斑鳩→大阪と回ったのか、 そ逆だったのか全く記憶が無い。

関西旅行5(猿沢の池)
関西旅行5(猿沢の池)


法隆寺・中門の前での記念写真。
バスで観光スポットを沢山回る駆け足見物だったので、草臥れてしまい、途中から目的地に着いてもバスに残って見学をサボっていたのだが、流石に法隆寺は見学したようだ。

関西旅行6(法隆寺)
関西旅行6(法隆寺)


大阪城天守閣を背にした記念写真。大阪城のお堀や石垣も気に入ったが、再建されたコンクリート造りの天守閣も「いいな」と思った。
そのせいか、お城を撮る ため退職後に三度も大阪城を訪れている。なお、この写真の生徒数は30名だが、卒業記念の写真を見ると我がクラスの在籍者は53名なので、23名の不参加者がいたことになる。

関西旅行7(大阪城)
関西旅行7(大阪城)

◆アラカルト

 鎌倉・大仏様
鎌倉・大仏様

城ヶ島の途中で寄ったのかと思ったが、服装が違うので別の機会に行ったようだ。

学校行事ではなく、クラスの有志で行ったと思われる。矢印が小生。背広は担任のM先生。

写真を見て、グループで鎌倉へ行ったことを思い出したが、思い出せるのはそこまでで現地での行動は全く思い出せない。

 

 

 

 

 

 

中学校では、臨海学校とか林間学校の記憶が無い。あるいは泊まりけは費用が掛かるので小生は行けなかっただけかもしれない。二年生の夏休みに日帰りの海水浴が計画されたので参加した。鎌倉・材木座海岸だったと思う。雨模様の天気で海水浴には寒い日だったが、到着して暫くしたら遊泳禁止になった。

日帰り臨海学校
日帰り臨海学校
夏休みの小生
夏休みの小生


中学二年までの夏休みは毎日外で遊んでいたので、真っ黒に日焼けしていた。但し、この写真の黒さは撮影者のレベルを反映したもので、実物はこんなには黒く なかった。

撮影者のSさんは、現像に出す前に残りのフィルムを使い切ろうとして、偶々近くにいた小生を撮ったと思われる。

翌年、三年生の夏は、遊び仲間の O君と気まずい関係になり、高校受験も控えていたので外遊びが激減、日に焼けるどころか病人みたいに生白い肌で夏休みを過ごした。新学期の教室では、見事 に日焼けした仲間の仲で白過ぎて肩身が狭かった。

 

 


我ら3年7組の教室の南側に百葉箱が設置されていた。低い竹垣で周囲を囲み芝が敷かれていたので日向ぼっこに丁度良かった。古い写真の裏に「昭和30年11月」とあるので、卒業が迫って意識的に記念写真を撮ったようだ。

校庭の片隅にて1
校庭の片隅にて1

裏書きが無いので撮影日は不明だが、服装から判断すると前掲写真より後で高校の入学試験が近づいた時期と思われる。

校庭の片隅にて2
校庭の片隅にて2

小生は理科系の科目が好きだったので漠 然と工業高校への進学を考えていたが、身近に大学生がいなかったので大学のイメージが湧かず、大学進学は全く念頭に無かった。当時は数学と将棋に熱中して いたため、受験参考書よりも兄の本立てにあった岩切晴二の「三角法精義」とか「解析精義(上、下)」に夢中で、その合間に将棋の本を読んでいた。

 


◆卒業時の校舎全景
残念ながら卒業アルバムには校舎の写真は無く、代わりにこのスケッチが使われていた。正門の辺りから校舎全体を撮影するのは難しかったのかもしれない。右端は講堂で卒業の数ヶ月前に竣工したと記憶している。

昔の校舎と校歌

 


◆卒業時の教諭陣
大きな矢印がN校長、小さな矢印が担任のN先生、その右の星印が一年・二年の担任だったM先生。

卒業アルバム2

 


◆我が3年7組
我々の学年は9クラスあった。卒業アルバムには各クラスの集合写真を載せた台紙と生徒の氏名が印刷された仕切り紙が綴じられていて、顔と名前の対応がつくようになっていた。半世紀後に3年7組の写真を見ると、どうしても名前が浮かんでこない同級生が何人かいて、仕切り紙の助けを借りる必要があった。

卒業アルバム3


◆高校受験
小生は理科系の科目が好きだったので漠然と工業高校への進学を考えていた。三年生になって周囲の影響でいつの間にか都立の進学校を目指すようになった。しかし、身近に大学生がいないこともあって大学のイメージが湧かず、大学進学は全く念頭に無かった。自分の人生について確たる目標が無く、受験勉強にもあまり熱が入らなかった。

当時は数学と将棋に熱中していたため、受験参考書よりも岩切晴二の「三角法精義」とか「解析精義(上、下)」に夢中で、その合間には将棋の本を読んでいた。将棋が好きだと言うだけで、クラス内にK君という好敵手がいたことで夢中になったのかもしれない。昼休み、K君と理科室で将棋に熱中して午後の授業に遅れ、担任のN先生に絞られた記憶がある。

数学以外の受験勉強は遅々として進まなかった。読みかけの受験参考書の残りのページの厚さを恨めしく眺めながら暮らしたような気がする。眺めているだけでは残りの厚みはなかなか減らず、残念ながら第一志望校は不合格だった。そのため、一寸違った道を歩むことになったが、合格していてもその先で同じ道に合流したような気がする。

初めて経験した受験戦争が終わった時、挫折感だけが残った。第二志望校へ行く気がせず、進学を諦めて働こうかと考えながら鬱々とした日を過ごしていた。先が見えない中で工業高校から補欠入学の連絡があった。 突然の知らせに君子豹変して工業高校に入学することにした。 内心ではホッとした。